仏教とスピリチュアリズム

2011年3月29日 (火)

仏教とスピリチュアリズム(4)~類魂と無我と空と

 生まれ変わりがあるとして、前世と今生の私に同一性があるのだろうか、さらには類魂説を取り入れたら、果たしてどこからが私でどこまでが私なのか・・・。そんな問題提起をしました。

 こういう哲学的悩みには、仏教の出番です(笑)。仏教の無我説では(但しブッダ直伝ではなくもう少し後世の仏教)、そもそも「常住不変」なる私などというものは存在しないと説きます。そうです、どこからが私でどこまでが私などと眉間にしわを寄せて追究して何になるのでしょうか。

 前世と今生の私に同一性があるのかというのは一見もっともな問いに思えます。でも考えてもみてください。この世での私だって、同一性があると言えるでしょうか。私は幼い頃の記憶が鮮明にある方ですが、それでも3歳ぐらいまでが限界です。2歳以前のことは思い出せません。0~2歳の私も怒ったり泣いたり喜んだりして自我を発揮していたことはアルバムにも残っていますが、当時のことを親や親せきから聞かされても全く記憶にないので妙な気分になります。当時私を構成していた皮膚も血液も細胞も、現在の私には全く残っていないでしょう。つまり精神的にも肉体的にも現在の私と同一性があるのか疑わしいというわけです。

 しかし、だから何なのでしょう。同一性が疑わしいから、人間が、幼児から子供へ、青年へ、大人へと成長していくというのは幻にすぎないとでも言うのでしょうか。私は、無我説と輪廻説が両立しないという議論はこれとよく似た極論だと思います。今の私の記憶にはないけれど、幼い頃受けた親からの愛情や様々な葛藤や経験は、間違いなく今の私に影響を及ぼし、私の個性の一部になっていることでしょう。細胞に同一性はないのかもしれませんが、幼い頃に受けた傷の痕跡はあちこちに確かに残っています(よく怪我をする子供だったようです(苦笑))。同一性があるのかないのかは知らないけれど、間違いなくそうした「つながり」がある。それでいいのではないでしょうか。

 「無我」とか「空」とかいう考え方を極論にまで推し進めてしまうと、まるで宇宙全体が黒や白の一色に塗り込められてしまって、多様な個性や色が消え失せてしまうようなイメージをもってしまいます。しかしそういうことではないのだと思います。虹は見る人の文化によって、七色に見えたり、別の数の色に見えたりすると言います。実際には色の数を特定することはできません。しかし、だからと言って、カラフルな色の美しさを幻とでも言うのでしょうか。色の境界は厳密には引けないけれど、確かに多様な個性をもった色で構成されているのです。

 類魂の一員として生まれ変わりを繰り返す私たちも、虹を構成する一色のようなものではないでしょうか。そして、その類魂もより大きなグループの一部を構成していて、そうした連鎖は全体=神にまでつながっていると言われます。私たちはそれぞれに豊かな個性をもつ存在でありながら、厳密には独立した存在ではなく、相互に浸透し合った存在であり、全体=神の一部分でもある。こんな感じでしょうか。

 こんな風に、私の中では、仏教的な考え方とスピリチュアリズムの類魂説がひとつに溶け合って、それなりに納得しています。

 今回書いたことは、実は以前の記事「幼稚園ではおもちゃで存分に遊ぼう!~悟りあるいは解脱について」で少し触れた内容を改めて展開してみたものです。併せて読んでみてください。また、東京スピリチュアリズム・ラボラトリーのスピリチュアリズム・ブログで展開されている議論とも響き合っています。

 これにて理屈っぽい文章は一旦終わります。

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2011年3月10日 (木)

仏教とスピリチュアリズム(3)~類魂説

 前回は大乗仏教で高度に理論化された「無我」について書きました(ただ、大乗仏教だけを理屈っぽいと言うのはフェアではないでしょう。ブッダ亡き後に展開した部派仏教なども相当に高度に理論的です。ナーガールジュナ(龍樹)など大乗仏教側はそれらに対抗するために理論武装していった感もあります)。

 実はブッダが説いていたのは「無我」ではなく「非我」だという説もあります。「私という存在の実体はない」ではなく、「○○は私ではない」ということです。現代風に言うと、「肉体や財産や地位や名誉が私なのではない。そんなものに執着するな」という考え方です。これはスピリチュアリストにも普通の常識人にもとてもわかりやすいですね。ブッダが説いていたのは確かにこちらのような気がします。

 一方、生まれ変わりをめぐって、素朴なスピリチュアリズムにはめずらしく(笑)、少しだけ理論っぽいのは、フレデリック・マイヤーズが最初に霊界から伝えてきた(いわゆる「マイヤーズ通信」)「類魂説」でしょう。私たちは単純に魂が丸ごと再生してくる(全部再生説)のではなく、類魂の一部として再生してくる(部分再生説)という考え方です。私たちの前世や場合によっては指導霊などの存在も、実はこの同じ類魂の一部、つまり魂の兄弟たちであるというわけです。類魂は体験や教訓や成長を共有していると言います。私の成長は類魂全体の成長に貢献するし、私の人生は類魂の別の部分が残した課題を克服することが目的かもしれません。シルバーバーチはこれをパーソナリティ(この世での私)とインディビジュアリティ(この世での私を含む類魂全体)と表現しています。

 欧米のスピリチュアリズムでは、再生肯定派と否定派があると書きました。『スピリチュアリズムの真髄』(原題は“Higher Spiritualism”-つまり軽薄なスピリチュアリズムとは一線を画するぞという立場です)の著者ジョン・レナードなどは明確な否定派で、訳者の近藤千雄さんも、そこだけは疑問を呈しておられます。シルバーバーチは再生を肯定しているのに、その霊媒のモーリス・バーバネルはある時期まで否定派だったという話は有名です。キリスト教文化圏とインド宗教界のあまりの違いに驚きますね。

 そして、類魂説=部分再生説は、この両派をうまく統合してしまうのです。パーソナリティに着目すれば再生はないという考え方も成り立ちそうですし、インディビジュアリティを考えれば再生はまぎれもなくあるということになりますしね。

 しかし、私たちはここでハタと困ってしまいます。前回、「前世の私と今生の私には同一性があるのか」という問いを立てましたが、類魂説まで入ってくると、ますますわけがわからなくなります。前世の私は、私が属する類魂の別の部分?私を導いてくれている指導霊が実は私の一部???

 どこからが私?どこまでが私?

 困りましたね(笑)。続きは次回に。

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2011年3月 6日 (日)

仏教とスピリチュアリズム(2)~無我と空

 いよいよさらに理屈っぽい世界に入って来ました(笑)。

 生まれ変わりがあるとして、今生の私にとっては思い出すこともできない前世の私など「私」と言えるのかというもっともな疑問があります。言い換えると、前世の私と今生の私に同一性があるのかという問いです。

 これに対して、ある種の仏教の論者はきっと「私などというものは存在しない」と答えるでしょう。いわゆる無我説です。インドにおいて理屈っぽいけれど素朴な初期仏教から少し断絶する形で大乗仏教が興り、それが理論化されていく過程で、無我とか空という概念も高度に哲学化されていったと言われています。

 例えば、こんな風に説明されます。私と私以外を隔てるものは何だろうか。皮膚か。しかし皮膚を通り抜けて、あらゆるものが行き来している。皮膚自身もどんどん新陳代謝を繰り返している。実は、私というものが実体のあるものという考えは錯覚であって、そんなものは存在しない。私というものは様々な材料や関係性の集積であり、日々変転している「無常」な存在である。

 仏教の影響も受けているニューエイジ系の理論家ケン・ウィルバーは『無境界-自己成長のセラピー論』という著書も書いていて、自分と他者はもちろんのこと、あらゆる境界が、実は相対的で、曖昧であるという観察から、究極的な高い境地では、宇宙全体がひとつであるという認識に至るという趣旨のことを述べています。(随分前に読んだのでうろ覚えです)

 私という存在の相対化にとどまらず、あらゆる存在の相対化を主張するのが空という考え方です(厳密には無我にも同様の意味があります)。特にこの空を高度に理論化したと言われているのが2~3世紀頃に活躍したと言われるナーガールジュナ(龍樹)です。初期仏教では単純な因果関係を指していた「縁起」の概念を、あらゆる事物は相互に依存した関係にあり、それだけで独立に実在しているのではないという方向へと徹底させます。そしてそういう存在のありようを空と呼びます。(ちなみに初期仏教では、空という言葉は、物事を観察して説明する際の数多くある言葉のひとつにすぎず、それほど特別視されていたわけではないようです。)

 さて、ここまで来ると、「前世の私と今生の私に同一性があるのか」という問いは、全くナンセンスということになりますね。もともと私の同一性など存在しないのですから。

 そして、無我説や空論を重視する仏教思想家の中には、輪廻転生を否定する人たちもいます。無我説を徹底させてしまうと、輪廻を繰り返している主体が何なのか説明がつかなくなってしまうからです。

 しかし、果たしてそうでしょうか。少し先走ると、過度に理論化に走るからそんな袋小路に入ってしまっているのになあと私などは思うのですが、続きは次回に。

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2011年3月 5日 (土)

仏教とスピリチュアリズム(1)~輪廻と解脱

 実は、このブログでは、空理空論の理屈ばかりの議論はやめよう、できるだけ実体験や日常生活に根ざした地に足の着いた文章を書こうと心がけてきました。もともとが理屈っぽい性格だからです。今回の文章は、その基本スタンスに反し、ちょっと空理空論に近いかもしれません(苦笑)。

 仏教というよりインドの宗教界では、常に輪廻転生というのが大きな関心事だったようです。テーラワーダ仏教(いわゆる原始仏典のみを重んじる南伝系仏教)では、生命は死の直後に次の生命に生まれ変わり、輪廻転生を繰り返すと説かれています。そして、修行者がめざす解脱とは、この輪廻の繰り返しから脱出することだとされています。「もはや生まれ変わることはない」というのが高い悟りに至った者に対する形容となっています。

 こういう世界観は、私たち現代日本人には少し違和感がありますよね。なぜ生まれ変わりをそんなに忌み嫌うのだろう。死がすべての終わりではなく、生まれ変われるのなら、ありがたいことじゃないか。ましてや、厳しい修行までして、なぜそこからの脱出を求めないといけないのだろう。そんな風に思われた方はいらっしゃませんか。

 一方、スピリチュアリズムでは(欧米では再生を否定するスピリチュアリストもおられますが)、前世での教訓や積み残した課題を克服し、魂のさらなる成長をめざして、再度、地上に生まれてくると考えます。そして、テーラワーダ仏教とは異なり、前世と今生の間には、「あの世」での期間があり、そこで様々な反省や検討がなされた上で、必要があれば地上に生まれてくるのだと考えます。

 しかし、例えばシルバーバーチのような高いレベルに達した霊は、もはや地上での修行を必要としないと言います。高いレベルの霊にはそれにふさわしいより高次元世界での修行や役割があるようです。

 ここまで書いてきたら、ふと気づきますよね。仏教の輪廻観とスピリチュアリズムの再生観は、余計な解釈を取り除いて、端的な結論だけを取り出すととても似ています。未熟な魂は地上に再生し、成長した魂は地上には再生してこない。(しかし、再生してこないのは、あくまで結果であって、めざすべき目標ではない。)

 私は、きっとスピリチュアリズムで説かれている再生観の方が、真実に近いのだろうと思います。そして、インドでは長い長い歴史の中で、様々な解説や解釈がなされ、いつのまにか現代人には少し違和感があるような輪廻観、解脱観が出来上がってしまったのではないかなあと思います。

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