飯田史彦

2012年2月19日 (日)

この世の意味と政治参加~『生きがいの創造Ⅳ』を読んで

 先日、「最近読んだ本」と題して、飯田史彦著『生きがいの創造 Ⅳ 私たちはどこへ向かうべきか?』をほんの少し紹介しました。今回はそのやや詳細版です。

 飯田さんは、部分的な拾い読みによる誤解を避けるために、細かい目次をつけておられません。私の紹介がその折角の配慮を台無しにしてしまわないように気を付けないといけませんね。本の紹介というより、飯田さんのメッセージに触発された私の考えの表明であるとお考えください。

 飯田さんと光の存在は、人間がこの物資世界に生まれてくる目的について問答を交わします。生きる意味について答えが得られず、スピリチュアリズムを学んではじめて納得のいく答えを得たという経験を、多くのスピリチュアリストがしていると思います(このことは以前、『生きる意味~スピリチュアリズムの本質』で書きました)。しかし、それでもなお、なぜわざわざこの物質世界に生まれてくるのだろうという疑問をもつことがあります。魂の成長にとって貴重な修行の場であるとも言われます。これに対する光の存在の答えは、「信じることに挑戦するため」です。拍子抜けするようなシンプルな答えです。「この物質世界に生まれてくると、脳意識を中心とした、言葉による意思疎通が、主な交信手段となります。だからこそ、自由自在に非言語のコミュニケーションができる光の世界には存在しない、ある重要な感情を体験することが可能になる」というのです。

 これは、なかなか本質を衝いた答えだと思います。私たちは前世の記憶も消され、本質は霊であると言われても、それを見ることも触ることもできない環境に置かれているのです。誰もが前世の記憶を持ち、完璧な霊能力を有していたら、ことさらスピリチュアリズムという必要さえないでしょう。そういう環境に置かれながら、他者を信じたり、社会とかかわったり、世界や宇宙のことを考えたりすることにきっと意義があるのでしょう。

 ここでひとことスピリチュアル界に苦言を呈しておかねばなりません。物質世界で生きる意味がそうであるならば、自分の前世を知ろうとしたり、何でもかんでも霊能者や占い師にアドバイスを求めたりするというのは、人生の意義を台無しにするような行為ですよね。

 本書の内容に戻ります。もうひとつ印象に残ったのは、光の存在が政治参加の意義について語っていることです。これはスピリチュアル系の書物ではめずらしいのではないでしょうか。私の中では、スピリチュアリズムと政治参加は全く違和感なく結びついているのですが、世間の人たちが考えるスピリチュアルとは、どちらかというと政治や社会の現実から逃避するようなイメージではないでしょうか。実際、そういうスピリチュアルは世に溢れています(これ以上の苦言はやめておきます(笑))。

 本書は、東日本大震災を受けて書かれています。震災後は政治や国家に対する不信が吹き荒れました。それは当然の批判でもありましたが、あまりにも政治や国のせいにばかりしていないかという風にも感じました。その少し前まで、小さな政府で多くのことを公から民にゆだねるべきとか、地方分権で国から地方自治体へと主張していた人たちが(その主張自身は正しい部分もありますが)、こぞって国が国がと言い出したのには正直とまどいました。

 光の存在が、批判ばかりしていないで政治参加をと言うのは、まるで公民や現代社会の教科書のようですが、政治にそれなりの関心をもってきたものとしては心強いかぎりです(当然のことですが、スピリチュアリズム党を作れとかそんな短絡的な話ではありませんよ(笑))。

 少し話がそれますが、社会学者の宮台真司さんは、かつてポストモダン系の人たちによくあるように、政治なんてしたい人たちだけがかかわればいいという主張をしていました。宮台さんの鋭い知性には一目を置いていた私ですが、この意見には同意できませんでした。しかし、その宮台さんも最近は(特に震災後は)、「〈任せて文句たれる社会〉から〈引き受けて考える社会〉へ」(「グリーンアクティブ」に関する宮台真司のアピール)などと言い始めています。

 東日本大震災を契機に社会が変わったという言い方は、あちこちでなされています。あまり我田引水めいたことばかり言うのは考えものですが、確かに変わり始めているという気もします。何せ、光の存在と宮台真司さんの意見が一致するのですから・・・(笑)。

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2010年6月18日 (金)

飯田式「絶対優位の戦略」を改めて考える

 最近、週刊誌や論壇誌みたいなタイトルが続きますが(笑)。

 先日の記事「霊やあの世の存在はそんなに大事か」の中で、飯田史彦さんの「スピリチュアルな仮説」の絶対的優位性という議論(「絶対優位の戦略」)を紹介しました。

 再度、引用しますと
(1)「死後の生命は存在しないこと」は永遠に実証できない
(2)死後にも意識があった場合、否定論者は自分の誤りを知るが、死後に意識がない場合、肯定論者は自分の誤りを知ることはない
というものです。

 だから、「スピリチュアルな観点」に基づいて人生を前向きに生きていく方がよいというような主張です。

 これに対して、それは打算的な戦略であり、信じている振りをしているだけでは、本当の心の平安は得られないのではないかという鋭い指摘(コメント)をいただきました。

 なるほど確かに、スピリチュアリズムに共感していない人たちに、「絶対優位の戦略」などと言っても何の説得力もないように思います。仮にその論をしぶしぶ受け入れても、飯田さんがおっしゃるような生きがい感に対する劇的な効果など生じないでしょう。

 では飯田説には意味がないのでしょうか?そうではないと思います。いや、少なくとも私にとっては意味がありました。そのことを書いてみます。

 その前に、あるブログにおいて、スピリチュアリズムはカルト性のある新興宗教の一種ではないか、という意見もありました。それに対して、カルトや新興宗教の定義は?などという切り返しをしても、議論のための議論みたいになってしまってあまり意味がないでしょう。ただ、そうした意見も念頭に置きつつ書いてみたいと思います。

 スピリチュアリズムは科学であり、哲学であり、宗教であるという言い方がされるときがあります(「米国スピリチュアリスト連盟」の信条など)。ここで言う「科学」というのは、「私たちの宗教の教義は最新の理論物理学とみごとに一致している」というような強引で怪しげな話ではなく、19世紀後半から続々と発生した心霊現象、霊媒現象に対して、科学者たちが真剣に検証を重ねてきた、心霊研究や超心理学の150年にわたる蓄積のことを指しています。スピリチュアリズムはそうした科学的研究の蓄積に基づいているというわけです。

 心霊研究に取り組んだ多くの科学者たちは、当初の懐疑派も含めて、霊の実在を確信するようになりました。決定的な証明にまでは至っていないとされていますが、当時の議論を読むと、霊媒現象が真実かペテンかで争われているのではなく(ペテンは科学者たちによりさんざん暴かれました)、霊媒が通常の科学では説明できない能力を発揮している点は疑いようがないとして、その解釈として霊魂説が説得的か、テレパシー説など他の説明の方が説得的かで決着がついていないという印象でした(デボラ・ブラム『幽霊を捕まえようとした科学者たち』)。『第2の江原をさがせ!』で社会派ジャーナリストたちが日本のスピリチュアル・カウンセラーを検証した結果も、ほぼ同様の結論でした。

 また、スピリチュアリズムでは、その思想の源泉として霊界通信を重んじますが、これもある教祖にお告げが降りたというのとはかなり様相が違います。スピリチュアリストの間で高く評価されている霊界通信に、イギリスのステイトン・モーゼスを霊媒とする『霊訓』(自動書記通信)があります。ここでは牧師であるモーゼスが、ときにキリスト教の教義と鋭く対立するその内容に激しく抵抗します。そして、どこの何者かもわからない存在からそんなこと(キリスト教と矛盾すること)を言われても、簡単に信じることはできない、証拠を示せなどと迫ります。そして、長い長い論争の果てに、モーゼスはその通信を受け入れ、世間に公表します。一例ですが、こういう厳しいプロセスを経てきた哲学であり宗教なのだという自負が、近代スピリチュアリズムにはあるように思います。

 さて、私は、日本仏教やインド仏教、その他さまざまな考え方をさまよった挙句にスピリチュアリズムに復帰しました。飯田さんが言うところの「スピリチュアルな観点」というものに最も説得力を感じたからです。そして上に紹介したような心霊研究や超心理学の蓄積のことも学びました。しかし、それでも霊の実在を確信するには至りませんでした。自分自身の体験も大事だと思い、ミディアム(霊媒)によるカウンセリングも何度か受けてみました。少し驚くような体験もしました。それでも決定的な確信には至りませんでした。

 そんなときに私は、飯田さんの「絶対優位の戦略」を知ったのです。決定的な証拠を追い求めるのもいいけれど、それが得られるまでは信じないのか?それで一生を終えてもいいのか?-そんな問題提起のようにも思いました。まるでブッダによる説法「毒矢のたとえ」(阿含経)を聞かされたような気分でした。

 証拠にこだわる科学性も大事だ。そこが従来の宗教とは違うところだろう。しかしそれだけではいけない。その人間観や世界観に説得力を感じ、前向きに生きていけるという点も大事だ。それらを総合的に判断すべきではないか。そんなふうに思いました。

 「スピリチュアリズムは科学であり、哲学であり、宗教である」というのは、そういうことではないかなあと思います。

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2010年6月15日 (火)

霊やあの世の存在はそんなに大事か

 前回の記事「現代医学とスピリチュアル・ヒーリング~父の思い出とともに」にトラックバックしていただいた先のブログ(ニセ科学批判などの議論が満載です)ではとても興味深い議論が交わされました。補完代替医療に関する議論が中心でしたが、話題はスピリチュアリズムや宗教にも及びました。

 ある方は、「霊やあの世の存在」は、実は「癒し」や「悟り」にとってはあまり必要ないのではないかというコメントをされていました。日本の伝統的仏教では、だからあまり詳しく「霊やあの世の存在」が語られないのではないかと。そしてそのような仏教の伝統を再評価すべきではないかと。(私なりに解釈して書いています)

 非スピリチュアリストの立場の方にとっては、きわめて自然な見方だろうなあと思い、私はあえてムキになって反論はしませんでした。ただ、スピリチュアリストにとってはとても大事な論点だと思いますので、ここで改めて論じてみます。内容的には以前書いた記事「生きる意味~スピリチュアリズムの本質」と重なりますが、少し趣向を変えて・・・。

 いきなりですが、例えば、人生とは高校入学に始まり卒業で終わる3年間のみであると信じている人類がいたとしましょう。入学以前の記憶はなく、卒業と同時に死が訪れると信じているのです。よほど強靭な信念やたくましさを持っている人なら、それでもその3年間を前向きに有意義に生きようとするかもしれません。しかし、大多数の高校生は、なぜ毎日高校に通って勉強しなければならないのか、予習や試験勉強に追われないといけないのか、勉強にスポーツにと文武両道などを求められないといけないのか、全く納得できないのではないでしょうか。たった3年間しかない人生、刹那的に快楽的に生きるか、やけになって犯罪に走るか、世をはかなんで自ら命を断つか、というふうになるのではないでしょうか。

 しかし、実は、高校入学に至るまでには、両親の無条件の愛を受けた幼児期があったこと、友達や先生と楽しく過ごしながら成長した小学校時代があったこと、中学校時代には、自分の能力や個性、そして夢を考えながら、希望の高校を選び、その合格に向けて一生懸命勉強した結果、今の高校に入学したこと、などを思い出したとしたら、どうでしょう。そして、高校の先には、これまた今の自分の成長度合いや個性に合わせて、どんな大学や専門学校に進学するか、あるいはどんな会社に就職するかという選択肢が開けていることに気づいたとしたら・・・。(そんな順調な人生ばかりではないという現実論はとりあえず措くとして)

 そのような「新たな世界」が見えてきた後では、これまでそれだけが全てと信じていた「高校3年間」に対する見方ががらりと変わるのではないでしょうか。勉強やスポーツ、人間関係に対する意義づけや姿勢が一変してしまうように思います。

 少々強引なたとえ話ですが(笑)、スピリチュアリズムとはそういうものだと思います。これまで何度か書きましたが、スピリチュアルとは、開運や願望達成のための不思議なテクニックや来世に期待する思想などではなく、「この世」に対する新たな視点を提供してくれて、より前向きで積極的な生き方をもたらしてくれるものだと思います。

 「生きがい論」シリーズの著者である経営心理学者の飯田史彦さんは、このような変化を「スピリチュアルな観点」を獲得することによる「ブレイクスルー思考」と名付けておられます。飯田さんは、自らをスピリチュアリストとはおっしゃいませんが、その考え方はまぎれもなくスピリチュアリズムです。

 飯田さんによると、このような「スピリチュアルな観点」(詳細な説明は省略します)は、人の人生観、生きがい感に劇的な効果をもたらすと言います。いや、私自身がそうでしたから、きっとそうだと思います。

 このような変化は、立花隆さんが『宇宙からの帰還』において紹介されていた宇宙飛行士たちの価値観の変化や、臨死体験から生還した人たちの人生観の変化に相通ずるものがあるように思います。地球の外側やこの世の外側からの視点を得たことによる変化と言ってもいいかもしれません。

 さて、この「スピリチュアルな観点」の前提となるのが「霊とあの世の実在」です。これについては、近代スピリチュアリズム草創期より、科学者たちが心霊研究として取組み、一定の成果を収めてきましたが、完全なる決着はついていないようです。

 飯田さんは、実はご本人自身がスピリチュアルな能力をお持ちのようですが、経営心理学者らしく、あえて「スピリチュアルな観点」を「真理」とは主張されません。「人生観(仮説)であり、人生を前向きに生きるための発想法・思考法である」という位置づけをされています。「事実」よりむしろ「効果」に着目しようという立場とも言えます。「方便」に近いですが、これもひとつの考え方、というより戦略ですね。

 飯田さんのさらなるユニークな主張は、「スピリチュアルな仮説」の絶対的優位性です。(経営学における「絶対優位の戦略」とは、どう転んでも勝つというシナリオだそうです)

 簡単に紹介しますと
(1)「死後の生命は存在しないこと」は永遠に実証できない
(2)死後にも意識があった場合、否定論者は自分の誤りを知るが、死後に意識がない場合、肯定論者は自分の誤りを知ることはない
というものです。

 すごいですね。どうせなら、「霊とあの世の実在」を信じて前向きに生きた方が得でっせ(笑)、という考え方です。少々開き直りすぎのような気もしますが、これも面白い考え方ですね。

 やっぱり私は、伝統的習俗となった宗教的行為から得られる曖昧模糊とした「癒し」や、凡人にとっては意味不明あるいは難解な「悟り・解脱」よりは、スピリチュアリズムの考え方の方が納得感があって、好きです。それはある種の人たちから見れば幼稚な考え方なのかもしれませんが、私は、その幼稚に見えるほどシンプルなところが、スピリチュアリズムのすばらしいところだと思っています。

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