悟り・解脱

2011年9月 3日 (土)

静寂の境地か、スピリチュアルな境地か

 私が愛読していて、いろんな刺激や知識をもらっているスピリチュアリズム・ブログで、最近「ちょっとわからないような」という短い記事が載っていました。
http://blog.goo.ne.jp/tslabo/e/b862b7b25d1506221fa98d5f24b37ede

 普段の記事は、私がコメントできるレベルを超えているのですが、今回はちょっと刺激を受けて考えてみました。直接の応答にはなっていませんが・・・。

 この記事は、死をすべての終わりと見なしながら、それでも静かな諦念の中で死を迎える姿と、スピリチュアリズムに基づいて死後存続を信じて死んでいく姿の比較になっています。

 私は、確かに前者のような姿を立派だと思います。少し話を広げると、スピリチュアルな世界観・人生観に基づかずとも、常に安心で静寂な心境でいられる人がいたら、とても尊敬します。そしてそういう人というのは確かに存在すると思います(そういう状態が「解脱」と呼ばれるのかもしれません)。しかしながら、そういう人はきわめてまれで、とても魂のレベルの高い人に限られるように思います。

 突然、話は変わりますが、学生時代に聴いた中島みゆきさんの「孤独の肖像」という歌の中にこういう一節があります。

 愛なんてどこにもないと思えば気楽
 はじめからないものはつかまえられないわ

 これは、愛なんて存在しない、それを見極めれば苦しみから解放されるという「無愛説」を中島みゆきさんが唱えたという歌では、もちろんありません(笑)。

 逆ですよね。これ以上野暮な解説はしません。

 以前、このブログで、さだまさしさんの「ママの一番長い日~美しい朝~」「いのちの理由」という歌を紹介しました。とてもスピリチュアリズム的だと感じたからです。その同じアルバム『美しい朝』の中に「LIFE」という歌があり、こんなフレーズが出てきます。

 たとえばふらりとお茶でも呼ばれるみたいに
 この世に生まれ
 四方山話に花を咲かせてまたふらりと帰って行く
 そんな風に生きられたらいい

 こちらは老荘思想の趣ですね。

 肩の力が抜けて、悟りきった静寂の境地・・・。

 しかし、それは到達できるものなのでしょうか。
 具体的にどのようにして到達するのでしょうか。
 瞑想でしょうか、苦行でしょうか、それとも田舎にこもって農作業に従事すればいいのでしょうか。
 いや、それは到達すべき境地なのでしょうか。
 私たちがこの世に生を受けて、この人生を生きていく目的は、そのような境地に達することなのでしょうか。

 私には数々の疑問が湧いてきます。
 あくせくとストレスと緊張の中で生きていると、ふとそんな静寂な境地にあこがれるときもあります。しかし、私にはそれがめざすべきものに思えないのです。

 そして、そんな自分の立場から見たら、静寂の境地にいるかのように称している人たちは、本当にそうなのか、と問いたくなります。中島みゆきさんが「愛なんてどこにもないと思えば気楽」と言いながら、実は歌の終わりに「もう一度愛を」と叫ぶのと同じような本音が隠されているのではないか・・・。

 またまた、話がずれますが、以前、ある漫画家によるプチ修行体験記を読んだことがあります。ある瞑想家のもとで修行していたとき、「ところで先生は解脱しているのですか?」と質問して、他の参加者からたしなめられたというくだりを読んで、吹き出してしまいました。私も尋ねてみたいです。

 解脱しているとか、静寂の境地に至っているという人がいたら、是非お会いして、どのような雰囲気を漂わせているか、考え方はどうか、言動はどうか、といろいろ検証してみたいです。不謹慎でしょうか?

 最初の話に戻ります。死をすべての終わりと見なしながら、それでも静かな諦念の中で死を迎えている人がいるとして、心の底からそう思える人は素晴らしいし、かっこいいと思います。しかし、私は、たいていの場合は、単にあきらめの境地を余儀なくされているだけで、本心は別のところにあるとか、突っ張って悟りきったふりをしているだけではないかなあと思うのですが。(私の修行が足りないのでそう見えるのかもしれませんが・・・)

 そんな方向よりも、この世の喜怒哀楽に徹底的に振り回されて、傷ついたり転んだりしながら、それでも前向きに生きていって、一生を振り返ると恥ずかしいところだらけだけれど、まあ、ほんのちょっとは成長したかな、という終わり方の方が私は好きです。それに凡人向きです。今はやりの言葉で言えば「どじょう」のように「どろくさい」でしょうか?(笑)そして、あれもこれも反省して、それを踏まえて次の人生の設計をしていくという方がやっぱりしっくりきます。

 もう全て終わりとあきらめたり、呑気に静寂に浸っている場合じゃないですよ!

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2009年11月15日 (日)

幼稚園ではおもちゃで存分に遊ぼう!~悟りあるいは解脱について

タイトルはふざけ気味ですが、内容はまじめです(笑)。真剣に悟りや解脱を追求されている方々に対して失礼な物言いになってしまったかもしれません。迷い多き未熟者が書いた文章ですのでどうかご容赦を。

幼稚園ではおもちゃで存分に遊ぼう!~悟りあるいは解脱について

 中高生の頃、禅宗系の人たちの語る「無の境地」とか「自他の区別のない境地」というのがさっぱり理解できなかった。思想家の語ることは小難しく、高僧はその境地は言葉では説明できないという。私は、この人たち自身は本当にわかっているのだろうか、わかっているふりをしているだけなのだろうかと思うことさえあった。

 原始仏教に始まるインド仏教においても、「無我」や「空」といった概念が説かれる。自分という存在をはじめ、あらゆるものには実体がないという。こうした仏教の考え方の影響をうけた現代の思想家たちも、「無境界」「ワンネス」「普遍意識」などというキーワードを使いながら、それぞれの思想を説いている。

 こうした人たちの説明を読むと、確かにそうかなと思う反面、何か理屈ばかりこねまわしている感じがして、どうもすっきりとした納得感が得られなかった。

 その後、スピリチュアリズムを学び、「類魂」という考え方に出会った。私という存在も類魂の一側面であり、その魂の仲間たちと経験や成長を共有していること、さらにその類魂もより大きなグループの一側面であること、そういう連鎖が「全体」(神や普遍意識と呼んでもよい)にまでつながっていることを知った。それが事実なのかどうかは私には検証しようがないが、そういうしくみを理解すると、「自他の区別のない境地」という意味も理解できるような気がした。古今東西の偉大な思想家や宗教家たちは、このことを霊や魂という概念を使わずに、彼らなりに工夫を凝らして説こうとしていたのかもしれない、とも思う。

 では、私たちは瞑想などの修行により自分自身と「全体」が一体であるという究極の境地に達するべきなのだろうか。自らが神のような視点になり、世界には善も悪も存在しないというような境地をめざすべきなのだろうか。私はそれは、めざすべきものではないような気がする。(もちろん一瞬そういう境地を垣間見るということはあってもいいと思うが)

 シルバーバーチは「私には究極のことはわかりません」といつも謙虚に答えていた。もはや物質界とは直接コンタクトできないぐらいの高みに昇り、中継役の霊(これがシルバーバーチの肖像として描かれているネイティブアメリカンの霊だという)を経て、モーリスバーバネルを霊媒として語っていたシルバーバーチでさえ、わからないという究極の境地。それを物質界にいる人間がわかろうとする、あるいは、わかっているというのは少々傲慢ではないだろうか。

 私にはまもなく6歳になる娘がいる。もし彼女が「わたしは幼稚園(正確には保育園ですが・・・)のおもちゃで遊ぶことなんか興味ない。わたしは偉い修行をして、真理を体得し、この世界にはよいお友達も悪いお友達もない、両親も兄弟も先生も見ず知らずの他人もない、そういう境地になりたい。そして、この世界に平和をもたらす立派なひとになりたい」と言い出したらどうするだろう。

 私は我が子の頭をはたいてこう言うだろう。

「生意気なこと言うんじゃない。お前はまず幼稚園にあるおもちゃで存分に遊べ。新しいおもちゃがきたら目を輝かせ、飽きてきたら見向きもしなくなれ。お友達と楽しく遊んだり、おもちゃを取り合ってけんかしろ。親や先生に怒られたら、泣いたり、ふてくされて我を押し通そうとしたり、素直に言うことを聞いたり、悪い子や良い子になることを一杯経験しろ。そうやって毎日毎日、喜びや悲しみを一杯味わって、少しずつ成長しろ。それがお前の修行だ!」

 私たちは物質界という魂の幼稚園を修行の場に選んで生まれてきた。ならば、その幼稚園に用意されている喜怒哀楽や苦難や挫折、そして感動というおもちゃで存分に遊んで、少しずつ少しずつ成長していくのが私たちの務めだと思う。その成長の果ての果ての果てのずっと向こうあたりに究極の境地というものがあるのかもしれないけれど、今はそんなことどうでもいいのではないか、と思う。

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