生きる意味

2011年9月 3日 (土)

スピリチュアリズムと「生きる情熱」~高森光季さんの問いに答えて

 前回の記事「静寂の境地か、スピリチュアルな境地か」に対して、東京スピリチュアリズム・ラボラトリーの高森光季さんから、次のような問いかけがありました。

 「死後も生は続く」という確信が、「生きる情熱」に影響を与えるということがありましたでしょうか。たとえばある人にとっては、「今生がすべてではない」ということが、「生への情熱」を冷ますというようなことが、あるのかないのか……

 なるほど、(私の理解では)スピリチュアリズムの核心をついた問いかけですね。

 私はこれまで、ブログの中で、何度かこの点について触れてきました。結論を先に言うと、私にとっては「生きる情熱」に対してプラスの影響がありました。自分自身の復習を兼ねて引用してみます。

 スピリチュアリズムの素晴らしい点は、「生きていくことの意味」を教えてくれることだと思う。そして、そのことにより人生や世界との関わり方において決して虚無的にならず、前向きになれることだと思う。日常生活のささいなことにも意味を見出し、前向きになれたら、もはや私たちは終末や大どんでん返しを待ち望む必要はない。(090723『宇宙人のしゅくだい』-アセンション論議に思う)

 スピリチュアリズムの考え方に触れて、とても納得感があり、これはきっと真実に違いないと思えたのはなぜだろうと考えてみる。私は、それは、「死の恐怖」から解放してくれるとともに、「生きる意味」を合理的に教えてくれるからだろうと思う。(100211 生きる意味~スピリチュアリズムの本質)

 これまで何度か書きましたが、スピリチュアルとは、開運や願望達成のための不思議なテクニックや来世に期待する思想などではなく、「この世」に対する新たな視点を提供してくれて、より前向きで積極的な生き方をもたらしてくれるものだと思います。(100615 霊やあの世の存在はそんなに大事か)

 ひとことでまとめると、やはり「スピリチュアリズムは生きる意味を合理的に教えてくれる」というところでしょうか。「この世」に生を受けたのには、それなりの背景と理由があるということと、「この世」の後にもいろいろと予定があるという認識から得られる見通し感みたいなものです。

 それで、実際には、私はどうだったのか?

 私が、スピリチュアリズムの考え方に出会ったのは、高校2年生、16歳の夏です。初めは日本の宗教家から、少し後にはシルバーバーチから学びました。

 それまでの私は、「生きる意味」について答えが得られず悶々としていました。単に哲学的に悩むというよりも、一番の土台である「生きる意味」がわからないことから、その他のさまざまな意見や道徳などはすべて根拠のない空虚なものに思えました。

 中学校であるクラスメイトが、「なぜ勉強しなければいけないのか?」と先生に食って掛かりました。私はもっともな問いかけだと思いました。生きる意味もわからないのに、勉強しなければならない理由などあるはずもない・・・と。実際、そのクラスメイトは、先生とのやり取りの中で「なぜ生きているのか?」という問いも発していました。校則を守りましょうという先生たちの言葉に「なぜ」と疑問を発する生徒もいました。これももっともだと思いました。

 そうです、どんな言説もすべて空虚に思えてくるのです。それもこれも一番の土台のなぜ生きているのかがわからないからです。少し前に、「なぜ人を殺してはいけないのか」と若者が問いかけて、世間が騒然となりましたが、これもある意味もっともな問いですよね。

 こんな風にあらゆるものの価値を否定していく考え方をニヒリズムと呼ぶのでしょうか?私はある種のニヒリズムに陥っていたのかもしれません。そしてそんな状態になると、「○○は健康に悪いからやめましょう」と言われても「けっ!」と思います。「将来のために○○を学ぼう」と言われても、「なぜ将来のことなんか考えないといけないの」となります。手が付けられない嫌な奴ですね(苦笑)。

 実際の私はそこまでひねくれた若者にはなりきれませんでしたが、ただ、少なくとも頭の中ではそうでした。ニヒリスティックな意見や生き方を否定できず、むしろ共感している自分がいました。

 そんなときに、スピリチュアリズムに出会ったのです。ニヒリスティックな考え方とも違う、いくつか体験した非合理な宗教団体とも違う。霊だのあの世だのという非合理の世界を扱っているにもかかわらず、その説明ぶりは、きわめて合理的で説得力があるように思いました。

 それまでの高校生活は、何のために勉強するのかわからないまま勉強し、なぜ大学に行くのかも判然としないまま大学受験を意識していました。とても息苦しかったのを覚えています。

 しかし、スピリチュアリズムに出会って、発想が変わりました。まず、自分はどんな課題や目標を設定してこの世に生まれてきたのだろうと考えました。自分が今生でしたいこと、できることは何だろうと考えました。そして、それに基づいて、大学で何を学ぼうと考え、それに向かって、自分なりに意味づけをして勉強をしていきました。

 こんな風に書くと、実に優等生的ですよね。しかし、実際にはそんなに美しくは行きませんでした。スピリチュアリズムを基盤に生きていこうと勢い込んで、逆に心身状態を崩したり、まさにジグザグ走行でした。しかし、スピリチュアリズムとの出会いを契機に、進路を大きく変えたのは間違いありません(それが正しかったのかどうかは別として)。また、その後も決して順風満帆とは言えない人生が続きますが、それでも自分の中に、合理的に納得できる「生きる意味」がある限り、絶望的な気持ちになることは決してありませんでした。どんな出来事にも困難にも必ず意味があると思えるのです。

 もちろん、こういう生き方の転機というものは、ほかの宗教などももたらしうるものですが、スピリチュアリズムの違う点は、神秘体験や熱狂や特定人物のカリスマ性などではなく、合理的で理性に訴えかける世界観・人生観に依っているというところだと思います。

 それでは、高森さんの後段の問いかけ「「今生がすべてではない」ということが、「生への情熱」を冷ますというようなこと」についてはどうでしょうか?

 これは、あり得るとしか言いようがありません。私はスピリチュアリズムの誤用であると思いますが、どんな思想でも、全体を理解せず、ある一部分のみを切り出して、自分の都合のいいように、あるいは、とんでもないいびつな方向に理解してしまうということは起こりえます。

 親鸞の悪人正機説は、もはや私のような者が救われるはずもないと絶望していた人たちに光明をもたらしたかもしれませんが、悪人でもいいんだと悪行の限りをつくした人たちもいたかもしれません。「そのままのあなたでいいんだよ」という自己肯定感を取り戻させる言葉が、その人の成長を止めてしまう言葉になってしまう場合だってあります。

 したがって、スピリチュアリズムを説くにあたっても、相手の置かれている状態や理解力に合わせて、どこに力点を置くかを考えないといけないということでしょうか。またまた、「対機説法」「応病与薬」という話になってしまいましたね(ただし、この場合、真理そのものの変更ではなく、あくまでも説き方、与え方の問題として、です)。

 余談ですが、社会学者の宮台真司さんは、オウム真理教事件のころの著作で、「人生に意味なんかない」と断言した上で、「意味」を追求する生き方を戒め、「意味」がなくても生きられる「強度」を身につけていくことを提案しています。しかも「解脱」という言葉も使いながら・・・。こういう考え方は、前回の記事で取り上げた「死をすべての終わりと見なしながら、それでも静かな諦念の中で死を迎える姿」と相通ずるものがありますね。そして、どちらに対しても私は同じ理由から懐疑的です。ひとことで批判するとすれば、「無理して、突っ張ってんじゃねえ!」です。

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2010年2月11日 (木)

生きる意味~スピリチュアリズムの本質

 ストレートど真ん中のようなテーマを設定してしまいました(笑)。理屈っぽいですが、よろしかったらどうぞ。

生きる意味~スピリチュアリズムの本質

 スピリチュアリズムの考え方に触れて、とても納得感があり、これはきっと真実に違いないと思えたのはなぜだろうと考えてみる。私は、それは、「死の恐怖」から解放してくれるとともに、「生きる意味」を合理的に教えてくれるからだろうと思う。
 私は幼い頃、母親から「良い子」は死なないと教えられ、しばらくのちに、実はすべての人がいつかは死ぬと明かされて、大ショックを受けた。小学生の頃、改めて、大好きな両親も友達も、テレビ画面の中でにこやかに演じている俳優たちも、みんないつかは死ぬんだという現実に思いいたって、絶望的な気持ちになったのを覚えている。
 もうひとつの難問は、「何のために生きるのか」だった。この世界はなぜ存在し、人が生きる意味は何なのか。いくら考えても答えが出そうになかった。文学的な表現は世にいくらでもあふれていた。「生きる意味をみつけるために生きるのさ」みたいなセリフもそれなりにかっこいいが、答えになっていないと思う。合理的で説得力のある答えには出会えなかった。
 一昨年に自殺した、哲学や文学にも造詣が深かった友人は、「人生に意味はない」といつも主張していた(社会学者の宮台真司さんも同じ主張を展開している)。私は、「意味があるか、ないかは証明不能だ。意味がないと決め付けるのはまだ早い」と反論するのが精一杯だった。
 実は人間の論理的思考力なんていいかげんなものだ。小学生の頃、誰かが話す言葉に「なぜ」と問い詰める言葉遊びが流行ったことがある。問われた人が答えるとそれに対して「なぜ」と問い続けていく。すると必ずどこかで答えに窮してしまう。
 宇宙の果てについて思いをめぐらすと、とても落ち着かない気分になる。果てがあると言われても、私たちの日常的思考力は「ではその外は?」と必ず問いたくなる。時間についてもそうだ。ビッグバンから時間が始まったなどと言われても、「その前は?」と問いたくなるのが人情だ。
 私たちの論理的思考力は、究極の問いには答えることができない(数学の世界でも同様の議論があるという)。「人生の意味」というのも実はその種の問いにあたると思う。私が友人に反論したのはそういう趣旨だった。(実に理屈っぽいやりとりをする間柄でした)
 しかし、スピリチュアリズムはこれに答えを与えてくれる。私たちは肉体の死をもって終わる存在ではなく、霊的存在だという。そして「この世」の外側に、「この世」を含むより大きな霊的世界が存在するという。私たちは永遠の旅路を進む「霊」であり、その成長をめざして修行するために「この世」に生まれてくるという。しかも、この世界での自分の能力や個性、両親、生まれてきた環境、出会うべき人などについては、すべて自分の課題に応じて自分自身が設定したものだという。「人生に意味はない」なんてとんでもない!ということになる。
 私はとても合理的で説得力があって、しかもロマンティックで感動的とさえ言ってもいいような考え方だと思う。経営心理学者の飯田史彦さんは、仮にそれが真実ではないとしても、そう信じて生きるだけでも価値があるという趣旨のことを主張されているが(『決定版生きがいの創造』)、一理あると思う。
 もちろん、論理的にはこれは完全な答えではない。少し考えれば、では、霊はなぜ成長しながら果てしない旅を続けるのかとか、霊的世界は何のために存在するのかといった問いを立てることは可能だ。やはり問いは無限に続くのである。
 しかし、もはや純真な若者とは言えなくなって、ちょっと老練になった私(苦笑)は、思う。それは次の楽しみに取っておけばよい。人間のいいかげんな論理的思考力では所詮、答えは得られない。さしあたっては、この世での生きる意味を納得しただけで良しとし、ここでの修行をしっかりと続けよう。その後のことは、そのときに考えればいい、と。
 先に「あの世」へと旅立った友人は、何て言うだろうなあ・・・。

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