こぼれ話

2012年6月30日 (土)

こぼれ話~きみは愛されるために生まれた

 一昨年の10月に「こぼれ話~岡八朗さんと市岡裕子さんとゴスペル」で、ゴスペルに感動したと書きました。昨年の7月の「こぼれ話~ゴスペル体験記」でゴスペルサークルに入団してしまったと書きました。その続編(?)です。

 このサークル(まだ続けています)で、「きみは愛されるために生まれた」というとてもシンプルで感動的な歌に出会いました。とても短い歌詞なので全文掲載します。

 「きみは愛されるため生まれた」
 作詞・作曲/イ・ミンソプ
 訳詞/神 明宏 朴 鍾弼 & B.B.J.

 きみは愛されるため生まれた
 きみの生涯は愛で満ちている
 きみは愛されるため生まれた
 きみの生涯は愛で満ちている

 永遠の神の愛は われらの出会いの中で実を結ぶ
 きみの存在が 私にはどれほど大きな喜びでしょう

 きみは愛されるため生まれた 今もその愛受けている
 きみは愛されるため生まれた 今もその愛受けている
 (イ・ミンソプ公認訳)
 (C)2004 Lee Min Sup/LIFE MUSIC(WORD OF LIFE PRESS MINISTRIES)

 「きみの存在が 私にはどれほど大きな喜びでしょう」というあたりは、聴いていても歌っていても涙が出そうになります。誰のことを思ってかは、ここでは書きませんが・・・。

 この歌は、作詞・作曲者から推察できると思いますが、韓国生まれです。韓国人のイ・ミンソプ牧師が神学生時代に作詞作曲したワーシップソングとのことで、韓国内でヒットし、キリスト教徒以外の人にもよく知られているものだそうです。

 私が属するサークルでは、普段はアメリカ黒人教会で歌われているゴスペル曲を英語で歌うのですが、こういうシンプルな歌を、しかも日本語で歌うと、また格別の感動が味わえます。

 なぜ、こんなにシンプルなメロディと歌詞なのに、多くの人が感動するのでしょうね。

 話は飛躍しますが、聖書学者の田川建三さんによると、キリスト教の「主の祈り(Lord's Prayer)」は、イエスが、当時のユダヤ教の偉い人たちが教会で競って仰々しく長ったらしい祈りを唱えていたのを批判して、「神に対する祈りっていうのはなあ、こうするんだ!」と示したものだそうです。

 そういうことなのでしょうね。

 クリスチャンアーティストの松本優香さんの歌がユーチューブで聴けます。
 http://www.youtube.com/watch?v=BCZ5LSc3hUE

 また、冒頭の記事で触れた市岡裕子さん(実はわがサークルの先生です)も、最近出されたCDの中で、また違った雰囲気で歌っておられます。

 一度、お聴き下さい。

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2011年9月 4日 (日)

こぼれ話~小学生の私の死の受容(?)

 またまたスピリチュアリズム・ブログからですが、「ちょっとわからないような②」と題して、死の受容についての議論が展開されています。(私が前回、論点を広げたり、ずらしたりして議論してしまったため、改めて論点を整理していただいています。恐縮です!)

 http://blog.goo.ne.jp/tslabo/e/e88eb2a0a830fc0e9784b83c28590c04

 まとまったコメントはできませんが、少し思い出したことがあったので書きます。

 以前の記事「生きる意味~スピリチュアリズムの本質」でこんな風に書きました。

 私は幼い頃、母親から「良い子」は死なないと教えられ、しばらくのちに、実はすべての人がいつかは死ぬと明かされて、大ショックを受けた。小学生の頃、改めて、大好きな両親も友達も、テレビ画面の中でにこやかに演じている俳優たちも、みんないつかは死ぬんだという現実に思いいたって、絶望的な気持ちになったのを覚えている。

 この「小学生の頃」の話です。確か小2でした。自分はいつか死ぬんだという考えが襲ってきて、そこから逃れられなくなってしまったのです。

 学校に行っても、何もかもが色あせて見えました。何も楽しく感じません。家に帰ったら、優しい母親と頑固で厳しい父親と、時々けんかもする姉がいましたが、そんな温かい家族も、何の助けにもなりません。彼らとて、人はいつか死ぬという問題を解決できないことは、小2といえども理解できました。だから、そんなことで悩んでいることは口にしませんでした。(ただ、今は亡き母親によると、もっと幼い頃、私は盛んに「死ぬのは嫌だ、死ぬのは嫌だ」と訴え、母親はいたたまれなかったそうです。変な子供ですね(苦笑))

 テレビを観ても、「ここに出ている人たちもみんな死んでしまうんだ、なのになぜこの人たちは平気でいられるのだろう」と思いました。

 確か数日ほどのことですが、私は、苦しくて憂鬱で、しかも誰にも解決を求められなくて、悶々としていました。かなり変な小2ですね。

 そして、あるとき、誰かに何かを言われたわけでも、何かの本を読んだわけでもなく、突然に「こんなことを考え続けて何になるのだろう。考えても何も変わらないし、仕方がないよね」と吹っ切れてしまいました。「やーめた!」という感じです。死の床にあったわけではないですが、死の受容です(笑)。

 ただ、これで悟りを開いたわけではもちろんなく、例えば、10代、20代の頃、強いストレスの最中でよく眠れず、不快な睡眠に陥ったとき、突然よみがえってくるのは、小2の頃に感じていた「死に対する恐怖」でした。この恐怖にうなされて目が覚めるという経験を何度かしました。

 それはともかく、キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間―死とその過程について』については、数年前に買ったきり未読ですが、その中の有名な5段階プロセスの最後は「受容」でしたね。小2の私も(一緒にするなと叱られそうですが)一応「受容」に至ったわけです。

 しかし、思えば、死をすべての消滅と見なした上で、死と対峙したら、私たちに最後に残された選択肢は「受容」しかないのではないでしょうか。だって、どんなに勇敢に勇猛に戦ってみても、最後には絶対に負けるのですから。絶対に勝てない敵と対峙したら、最後は敗北を「受容」するしか道はないですもんね。早いか遅いかだけの差ではないでしょうか。(そういう意味では小2というのは世界最速の領域か?(笑))

 そして、絶対的な敗北を「受容」するのは、本当の「受容」なのでしょうか?選択の余地のない結論を「受容」する・・・小2の私は決して納得も受容もしていなかったように思います。(「だから!死の床にいる人と小2を一緒くたにするなって言ってるだろう!」とまたまた叱られそうですね(笑))

 こぼれ話ということで、このあたりで失礼します。

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2011年7月14日 (木)

こぼれ話~ゴスペル体験記

 引き続き軽めの話題です。先日、四天王寺参禅会のことを書きましたが、別に仏教に帰依したわけではありません。その証しというわけではありませんが(笑)、ゴスペルのことを書きます。

 昨年10月に「こぼれ話~岡八朗さんと市岡裕子さんとゴスペル」という記事を書きました。吉本新喜劇の元看板役者の娘さんが歌うゴスペルに感動したという話です。ゴスペルとは、プロテスタント教会でアメリカ黒人たちが育て上げた教会音楽です。力強くてリズミカルで、はっきり言って「かっこいい!」です。ウーピー・ゴールドバーグ主演のコメディ映画「天使にラブ・ソングを...」(Sister Act)で、ゴスペル人気が高まったと言われていますが、この映画、続編も含めてなかなかお奨めです(舞台はなぜかカトリック修道院ですが・・・)。10年以上も前の映画ですが、実は、市岡裕子さんのゴスペルに感動した直後に観て、さらに感動を深めた次第です。

 前置きが長くなりましたが、そのゴスペルを歌うサークルを見つけたので、飛び込みで体験・入団してしまいました。いきなり飛び込んでしまうのは、「スピリチュアル突撃体験記」以来の私の癖です(笑)。レッスンでは本場アメリカの教会で歌われているゴスペル曲を次々と歌っていきます。黒人たちのようにリズミカルにかっこよくとはいきませんが、楽しめます。最初と最後にはお祈りなどもしますが、必ずしもクリスチャンばかりではないようです。

 歌詞はシンプルなものが多いのですが、やけにイエスや神をほめ讃えるものが多いのには少し違和感があります。神様ってそんなにほめたり讃えたりしないといけないものなのかな・・・と。ただ、シルバーバーチもお祈りのときには、やたらと神を讃えていましたね。キリスト教文化圏の伝統なのでしょうか・・・。

 一方で、「大切なあなたに生きていてほしい(I need you to survive)」などと切々と歌う感動的なバラード調の歌もあります。

 参禅会にゴスペル・・・これだからスピリチュアリストは・・・などと顔をしかめる方もおられるかもしれませんが、私にとっては「これでいいのだ」なのです。宗教的様式そのものに価値を置く人たちにとっては「ちゃんぽん」は不謹慎なのかもしれませんが、私にとっては様式はあくまでも二次的な意味しかありません。しかし、だから不要なのではなく、弱い人間にはときとして効果的な援軍になるのです。おっと、理屈をこねるのはこれぐらいにしておきましょう。

 イギリス流スピリチュアリストの集まりでは、伝統的な讃美歌などが歌われることが多いです。あるいは、日本では、祝詞や般若心経、マントラなどもよく使われているようですね。これはこれで厳かだったり、神秘的だったりしていいのですが、ときには、ゴスペルでアメリカ黒人たちのようにかっこよく決めてみるのもいいかもしれませんね。(「やっぱり、これだからスピリチュアリストは・・・」と聞こえてきそうです(笑))

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2011年7月 2日 (土)

こぼれ話~四天王寺参禅会

 ご無沙汰しています。2ヶ月も記事を書かなかったのは、ブログ開設以来はじめてかもしれません。
 シルバーバーチをはじめとする数々の霊界通信や退行催眠時に現れるマスターたちが語ってきたように、私も数々の試練に巻き込まれながら、「順調」な人生を送っております(笑)。

 一応「生きています」ということを示すために、少し軽めの話題を書きます。

 以前、「スピリチュアル突撃体験記」と称して、いわゆる霊能者めぐりをしたときのことを連載で書きました。スピリチュアリズムへの復帰を迷っていたころの私には必要な体験でしたが、今はあまりその必要性を感じませんし、そもそもそのための財源がありません(苦笑)。

 ただ、スピリチュアリストを自認しながらも、元来怠け者で根性に欠ける私は、ひとりではなかなか瞑想などの実践も滞りがちです。そこで何か私を導いてくれるようなものはないかなと探していまして、ひとつ見つけました。

 四天王寺の参禅会。四天王寺とは聖徳太子ゆかりの由緒と伝統のある名刹です。大阪の天王寺に広大な敷地を構えた立派なお寺です。この由緒あるお寺が、毎週早朝に参禅会を催していて、誰でも体験ができます。体験は無料で、しかも座禅のあとにはお粥までいただけます。

 6月の初めに出勤前に参加してみて以来すでに4回ほど参加しました。毎週40~50人ぐらいの人たちが集っています。毎回必ず初心者の方がいて、信者の役員さんらしき方が丁寧に作法を説明されています。役員さん曰く、体験者のうち、その後続けて来るのは十人に一人ぐらいだそうです。すでに私はその希少な部類に入っていますね。

 「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と唱えながら本堂へと向かいます。聖徳太子が「篤く三宝を敬え」と説いたあの三宝=仏法僧への帰依ですね。これは、ある仏教徒の集まりでパーリ語で唱えられているのも聞いたことがあります。

 座禅は半眼で、結跏趺坐または半跏趺坐という例の足が痛くなる姿勢でやります。英国流スピリチュアリズムに親しんでいる者としては、椅子に腰かけて目を閉じて行う瞑想が普通なので、これはかなりきついです。お経などを唱える間の正座でまず足がしびれ、次に半跏趺坐(左足を右腿の上に載せます)の姿勢で30分ほど座禅を行うと足の感覚が全くなくなります。30分でよかった!これがもし1時間なら・・・と情けなくも思ってしまいました。

 座禅が終わると立ち上がって参加者同士でお辞儀をするのですが、その場でよろけそうになりました(苦笑)。私の指導霊の一人と言われる修行僧らしき存在からは、せせら笑われたように感じました。悔しいのでしばらく続けてやろうと思っています。

 それにしても伝統的宗教の力強さと懐の深さには感心しました。立派な境内と建物。毎週の行事を支える信者組織。お粥を作ったり振る舞ったりしてくれるのも信者さんたちの組織のようです。

 スピリチュアリストの集まりは、たいていが独自の建物も持たず、公共施設の会議室を窓口の人たちにいぶかられながら、苦労して借りて活動しているのが普通です(宗教活動には貸さないというのが公共施設の常です。スピリチュアリズムが宗教かどうかは微妙なところでしょう)。たいていはそれほどの大人数が集まるわけでもありません。

 スピリチュアリズムと伝統的宗教。いろんな場面で協力しあうことは可能な気がするのですが・・・。まあ、そういう大それた話は別として、私としては自分自身の修行の一環として四天王寺さんのご厚意に大いに甘えさせていただきます。四天王寺さんありがとうございます。

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2011年1月 9日 (日)

こぼれ話~「千の風になって」と「トイレの神様」

 「千の風になって」が話題になったのは、もう随分前ですね。
 実は、私の母が急逝した数年前と重なります。
 当時、私はスピリチュアリズムからは一旦離れてはいましたが、死者がお墓の中にはいないという言葉には共感を覚えました。しかし、そのあとの千の風になって私たちを見守っているという言葉にはとても違和感がありました。身近な家族や友人を失った直後の人間にとって、今まで共に語り合ったり、笑ったり、泣いたりしてきた人たちが、急に「千の風」などという抽象的な存在になってしまうことなど、とうてい受け入れられませんでした。

 「千の風になって」の歌を聴いて、癒されたり救われたりした人が大勢おられたようですので、これ以上ケチをつけるのはやめましょう(笑)。

 ただ、後に自殺した友人が、「なぜ自殺してはいけないのか」について悶々と悩み、ある仏教サイトに質問を出したとき、返ってきた答えが「無我」とか「空」とかの概念を使ったもので、友人が「悩み苦しむ人間にとって、まるで雲をつかむようなピンとこない話だ」とこぼしていたのを思い出します。千の風になるという考え方も、何かそういう、私たちの日常生活とのどうしようもない距離感を感じます。

 それに対して、年末の紅白歌合戦で不覚にもボロボロ泣いてしまった植村花菜さんの「トイレの神様」は、「千の風になって」以来の感動などと言われることもあるようですが、そこで描かれているのは、ひたすら日常的なおばあちゃんとのつながりなんですよね。一緒に五目並べをしたりかもなんば(関西での呼び名です。鴨南蛮のことです。でも私の子ども時代は鴨肉ではなく安っぽい鶏肉でした・・・)を食べたり、トイレには女神さまがいると教えてくれたおばあちゃん。病院にお見舞いにいったら「もう帰り」と追い返されて翌日には逝ってしまうおばあちゃん。いや、何回聴いても泣いてしまうのです・・・。

 近代スピリチュアリズムのいいところというか、私が好きなところも、こういう「死者」との個別的で、具体的で、血の通った(霊は血は通いませんが(笑))、あたたかい「つながり」です。宇宙との一体感を得たとか、無の境地を味わったとか、あるいは、宇宙意識だとか普遍意識だとかアカシックレコードだとか、そういうぶっ飛んだ(失礼!)世界ではなく、例えば、おばあちゃんが現れて、「あのとき新喜劇(関西人には説明不要ですが、吉本新喜劇のことです)の録画を忘れて悪かったね、今でもトイレを熱心に掃除してくれてありがとう」などと語ってくれることによって、霊的世界の実在を確信していく。スピリチュアリズムとはそういうことだと思います(注:植村花菜さんは別にスピリチュアリズムを歌っているわけではありません)。

 そんな素朴であたたかいスピリチュアリズムを少しでも広げていきたいなあと思います。

植村花菜「トイレの神様」
http://www.youtube.com/watch?v=Z2VoEN1iooE

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2011年1月 1日 (土)

こぼれ話~紅白歌合戦

 新年あけましておめでとうございます。
 新聞の社説などは、元旦には力の入った文章が載るのですが、ここでは逆に少し肩の力を抜いて・・・。

 大晦日の夜は定番のNHK紅白歌合戦を観ました。
 幼い頃は、最後まで起きていることができず、最後まで観た友人たちの話についていけなくて悔しい思いをしたことがありました(笑)。今は、逆に、うちの子たち(小3と小1)に合わせて、途中でテレビのスイッチを切らざるを得ません。今は、録画という私の小学生時代から見たら夢のような手段がありますが・・・。

 紅白歌合戦では、その年に流行った若い人たちの歌(年寄りくさい言い方ですが)やベテランたちの歌を次々と聴くことができて、なかなか楽しめます。歌番組なるものがほとんど姿を消してしまった中で、いや、そもそも生活の中で音楽を楽しむ余裕を失っている人間にとって、この時間はなかなか貴重なのです。

 しかし、うちの子たちの視点は全く異なります。彼らが真剣になって見つめているのは、ただ、紅組が勝つか白組が勝つか、なのです(笑)。当然のことながら小3男子は白組を応援し、小1女子は紅組を応援します。中間発表で白組が優勢であることを見届けて床に着いた後、翌朝ふたりは、ビデオでとにかくどちらが勝ったのかを必死に確認していました。そう言えば、私も彼らの年頃のとき、紅が勝つか白が勝つかということに必死だったのを思い出しました。

 なかなか笑えますよね。勝ち負けなんてどうでもいいじゃないか(少なくとも番組中の大人たちは誰も勝ち負けなんて本当は気にしていない)、そんなことより、それぞれの歌い手たちの歌に泣いたり、笑ったり、感動したり、したらいいじゃないか、と言いたくなりますよね。

 きっと、私たちの守護霊とか指導霊とか呼ばれる存在たちも、そんな思いで、私たち物質界で生きる人間が、つまらないことに振り回されたり、大事なことを見失ってバカげた振る舞いを繰り返している姿を、心配そうにか、あるいは、微笑みながらか、見つめているのでしょうね。

 子どもたちの姿を見ながら、ふとそんなことを思いました。
 今年もよろしくお願いいたします。

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2010年12月29日 (水)

こぼれ話~ブラジルで始まったベーシックインカム

 今年の3月に「ベーシックインカムという夢~貧困と格差とスピリチュアリズム」という記事を書きました。その後、ベーシックインカムの注目度はさらに上がり、メジャーな新聞や雑誌でも取り上げられるようになってきました。それは喜ばしいことだと思いますが、賛否両論ともいろんな立場の人たちが登場して、百家争鳴という感じもします。

 そんな知識人同士の議論とは少し違って、実際にブラジルのコミュニティでベーシックインカムを実践している人たちの話を聞く機会がありました。『ベーシック・インカム入門』の著者、山森亮さんやNPO法人ドネーションシップわかちあいなどの共催によるものです。

 話は飛びますが、小3の息子は相変わらず、ベイブレード(ベイゴマの進化系)とそのアニメにはまっています(「こぼれ話~ベイブレード「光り輝く明日へ」」参照)。アニメでは、ここ半年ほどは、ベイブレードの日本代表が世界各国の代表チームと対戦していく展開になっています。各国チームそれぞれのお国柄が描かれていて、なかなか楽しめます。最近、ブラジルチームと対戦しましたが、このブラジルの連中が何ともひどいやつらなのです(笑)。とにかくあの手この手の汚いやり方で、日本チームに勝とうとします。それもこれも、彼らが貧民街出身で、すさまじい貧富の格差の中でひどい仕打ちに耐えてきたがゆえという設定でした。ちょっとブラジル人を悪く描きすぎではないかと心配になりましたが・・・。

 ブラジルから来られたのは、NPOヘ・シビタス(市民活性化研究所)のブルナ・ペレイラさんとマルコス・ブランカグリオネさんというお二人でした。質疑応答の中で、ある方が日本にも格差と貧困の問題があることを訴えられました。それに対して、マルコスさんが急に声を詰まらせて、涙ながらに、ブラジルにおける貧富の格差の激しさ、富める人と貧しい人を隔てる壁、貧しい人たちが人間扱いされていない現状を切々と訴えておられました。マルコスさんにとっては、日本ではまだ全ての人が人間扱いされているように見えたと言います。マルコスさんは日本社会の全てを見たわけではありませんので、その理解が必ずしも正しいわけではないでしょうが、そう見えてしまうぐらいにブラジルでの状況は厳しいのだろうと思いました。つまりベイブレードでの描写も誇張とは言えないのではと・・・。

 マルコスさんは、そんな日本でこそ、今のうちにベーシックインカムを導入して、ブラジルのようになるのを防いでほしいともおっしゃっていました。

 ブラジルは世界でただ一つ、ベーシックインカムを法制化している国だそうです。ただ、現時点では予算の制約から実現には至っていません。そこで、ブルナさん、マルコスさんたちが、それなら自分たちがということで、100人程のコミュニティで、2008年10月から実際にベーシックインカムの給付を始めました。財源は(自分たちの持ち出しも含めた)寄付金などだそうです。

 実施してみると、驚くべき状況が生まれているようです。子どもの栄養状態がよくなったり、食料や衣服を買ったり、医療にかかったりというのは容易に想像できます。しかし、そこにとどまらず、例えばお菓子を作ってコミュニティの中で販売し始めたり、自分の子どもについての夢を語り始めたりという変化が生まれたそうです。

 ベーシックインカムに対するよくある批判として、怠けて働かなくなったり、お金を酒やギャンブルに使ったりするのではないかというのがあります。しかし、このコミュニティでは、今のところそういう現象は生じていないようです。マルコスさんに言わせれば、そういう事態も発生して、もっと貧しい人たちに自由というものを味わってほしいとのことでした。

 この講演会では、ほかにアフリカのナミビアでも同様の実験が行われていることや日本の長野県の中川村でもそういう構想があることを知りました。日本では、まだまだ議論段階ですが、こうした具体的な実践も始まっていることを知り、是非とも多くの人たちに伝えたいと思い、紹介してみました。

(参考サイト)
ブログ「困った時はお互い様」
「NPO法人ドネーションシップわかちあい」のブログで、当日の様子や参加者の感想が紹介されています。
http://blog.goo.ne.jp/donationship/e/f696997d2cc146790c206ec90ab45207

(参考文献)
山森亮「ブラジルの実験 小さな農村コミュニティで始まった給付」(『週刊エコノミスト』2010.9.21号)

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2010年12月14日 (火)

こぼれ話~『サンタクロースっているんでしょうか?』

 ずいぶんご無沙汰してしまいました。まずは、少し軽めの話題から・・・。

 クリスマスシーズンが近づいてきました。
 小3の息子が保育園児の頃、クリスマス・イブにサンタクロースから届くはずのプレゼントが、12月に入ったばかりなのに、なぜか押入れの奥の方にあるのを見つけてしまったことがあります。「見えた」「あった」などと言ってニタニタ笑っていました。これで「万事休す」かと思いましたが、その後、息子はなぜかこのときの記憶を消し去ってしまったようです。かなり間抜けな息子です(笑)。

 小学校に入って、上級生からの入れ知恵もあって、息子はサンタクロースの存在に半信半疑になってきました。そんなときに、サンタについて語り合う、何かいい本はないかなと探していて、『サンタクロースっているんでしょうか?』(偕成社)という本を見つけました。

 これは、100年以上も前の1897年に、ニューヨーク在住の8歳の少女バージニア・オハンロンが、父親のアドバイスで、『ニューヨーク・サン』という新聞に「サンタクロースっているんでしょうか?」という手紙を書き、『ニューヨーク・サン』が社説で真正面から返事を書いたものだそうです。

 ご存知の方も多いかもしれませんが、私は初めて読んでとても感銘を受けたので、紹介します。(中村妙子さん訳です。ひらがなを適当に漢字に直しています。)

 バージニア、お答えします。サンタクロースなんていないんだという、あなたのお友だちは、間違っています。
 きっと、その子の心には、いまはやりの、なんでも疑ってかかる、疑り屋根性というものが、しみこんでいるのでしょう。
 疑り屋は、目に見えるものしか信じません。
 疑り屋は、心の狭い人たちです。心が狭いために、よくわからないことが、たくさんあるのです。それなのに、自分のわからないことは、みんなうそだと決めているのです。
 けれども、人間が頭で考えられることなんて、大人の場合でも、子どもの場合でも、もともとたいそう限られているものなんですよ。
 私たちの住んでいる、この限りなく広い宇宙では、人間の知恵は、1匹の虫のように、そう、それこそ、ありのように、小さいのです。
 その広く、また深い世界をおしはかるには、世の中のことすべてを理解し、すべてを知ることのできるような、大きな、深い知恵が必要なのです。
 そうです、バージニア。サンタクロースがいるというのは、決してうそではありません。この世の中に、愛や人への思いやりや、まごころがあるのと同じように、サンタクロースも確かにいるのです。
 あなたにも、わかっているでしょう。―世界に満ち溢れている愛やまごころこそ、あなたの毎日の生活を、美しく、楽しくしているものなのだということを。
 もしもサンタクロースがいなかったら、この世の中は、どんなに暗く、さびしいことでしょう!
 あなたのようなかわいらしい子どもがいない世界が、考えられないのと同じように、サンタクロースのいない世界なんて、想像もできません。
 サンタクロースがいなければ、人生の苦しみを和らげてくれる、子どもらしい信頼も、詩も、ロマンスも、なくなってしまうでしょうし、私たち人間の味わう喜びは、ただ目に見えるもの、手でさわるもの、感じるものだけになってしまうでしょう。
 また、子ども時代に世界に満ち溢れている光も、消えてしまうことでしょう。
 サンタクロースがいないですって!
 サンタクロースが信じられないというのは、妖精が信じられないのと同じです。
 試しに、クリスマス・イブに、パパに頼んで探偵を雇って、ニューヨーク中の煙突を見張ってもらったらどうでしょうか?ひょっとすると、サンタクロースを、捕まえることができるかもしれませんよ。
 しかし、たとい、煙突から降りてくるサンタクロースの姿が見えないとしても、それが何の証拠になるのです?
 サンタクロースを見た人は、いません。けれども、それは、サンタクロースがいないという証明にはならないのです。
 この世界で一番確かなこと、それは、子どもの目にも、大人の目にも、見えないものなのですから。
 バージニア、あなたは、妖精が芝生で踊っているのを、見たことがありますか?もちろん、ないでしょう。だからといって、妖精なんて、ありもしないでたらめだなんてことにはなりません。
 この世の中にある見えないもの、見ることができないものが、何から何まで、人が頭の中でつくり出し、想像したものだなどということは、決してないのです。
 赤ちゃんのがらがらを分解して、どうして音が出るのか、中の仕組みを調べてみることはできます。けれども、目に見えない世界をおおい隠しているまくは、どんな力の強い人にも、いいえ、世界中の力持ちが寄ってたかっても、引き裂くことはできません。
 ただ、信頼と想像力と詩と愛とロマンスだけが、そのカーテンをいっときひきのけて、まくの向こうの、たとえようもなく美しく、輝かしいものを、見せてくれるのです。
 そのように美しく、輝かしいもの、それは、人間のつくったでたらめでしょうか?
 いいえ、バージニア、それほど確かな、それほど変わらないものは、この世には、他にないのですよ。
 サンタクロースがいない、ですって?
 とんでもない!うれしいことに、サンタクロースはちゃんといます。それどころか、いつまでも死なないでしょう。
 1千年のちまでも、百万年のちまでも、サンタクロースは、子どもたちの心を、今と変わらず、喜ばせてくれることでしょう。

 いかがですか?
 もちろんこの社説はスピリチュアリズムを意識したものではないでしょうが、スピリチュアリストとしてもうなづける個所がいくつもある、とても素敵な文章ですよね。

 ちなみに、2年程前に息子にこの本を読んで聞かせたら、なんだか、わかったようなわからないような、納得のいかないような顔をしていました。

 ま、そりゃそうですよね。(笑)

(追伸)

 「でも、結局、サンタクロースなんていないというのが真実じゃないか」と思った大人のあなた!それは少し違います。なぜなら、ここでサンタクロースは定義されていないからです。蛇足ながら、大人向けに余計な理屈をこねてみました。

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2010年10月28日 (木)

こぼれ話~アラン・カルデック自伝より・その2

 前回に続いて、「アラン・カルデック自伝」(『天国と地獄Ⅱ』所収)から印象的な部分を引用します。

-で始まる発言がカルデック、「 」内の発言が霊(この場合ハネマン)のものです。

-『霊の書』の第一部がもうすぐ終わりそうなので、もっと早く仕事を進めるために、Bに霊媒を務めてもらおうと思っているのですが、そのことについては、いかがお考えですか?

「それはやめておいたほうがいいと思います」

-どうしてですか?

「虚偽の霊から真実が伝えられることはないからです」

-仮に、いまBを支配しているのが虚偽の霊であったとしても、この霊媒を通じて高級霊からの情報を得ることは可能だろうと思うのですが。

「確かにそうです。しかし、この霊媒は虚偽の霊との縁が深くなっています。したがって、常に虚偽の霊が介入してくる可能性があるのです」

 Bは若い男性の霊媒で、容易に自動書記を行うことができる。しかし、アリストと呼ばれる、傲慢で横暴な霊に支配されていた。アリスト霊は、Bのうぬぼれやすい傾向性に取り入っていたのである。
 ハネマンの予測は当たっていた。Bは医学的な相談業務、物当て、また、占いの類を行うことによって、一財産を築こうとし、その結果、アリスト霊に翻弄されて、支離滅裂なことを言うようになったからである。やがて、誰からも相手にされなくなった。

 現代でもありそうな、いやあちこちで起きている事態ですよね。

 もうひとつ、カルデックから霊(〈真実の霊〉と名乗っているようです)に対する真摯な問いかけです。

-もし私が失敗するとすれば、それはどのようなことが原因となるのでしょう。私の能力不足でしょうか?

 「違います。とはいえ、真の改革者は数々の暗礁や危険に立ち向かわねばなりません。
 あなたの使命を遂行するのは極めて難しいということを自覚してください。(中略)
 あなたは、すさまじい憎しみを受けるでしょう。仮借ない敵陣営が、あなたの破滅を願って次々と画策するでしょう。あなたは、悪意、非難、攻撃、裏切り-あなたを最も信奉しているように見える人々の中からも裏切り者が出ます-の的となるでしょう。あなたからの心を込めた指示が、ねじ曲げられ、無視されるでしょう。何度も何度も徒労感のあまり使命を投げ出したくなるでしょう。
 ひとことで言えば、それは休みなき戦いなのです。休息を犠牲にし、平安を、健康を、そしてあなたの人生全体を捧げなければなりません。(中略)
 かくのごとき使命を果たすには、知性だけでは不充分です。まず、謙虚さ、慎み深さ、無私無欲が必要です。傲慢さ、うぬぼれ、野心があったら、すぐにやられてしまいます。敵と戦うには、勇気、忍耐力、不退転の決意が必要でしょう。さらに、ものごとを、偶然に頼らず、計画どおりに成就するためには、慎重さと同時に智謀も必要です。そして、最後に、献身、克己心、あらゆる面における自己犠牲が必要となります。
 以上のように、あなたの使命を成就するか否かは、すべて、あなたがどうするかにかかっているのです」

 スピリチュアリストの道は厳しい!ですね。「スピリチュアル」に対して、明るく楽しくハッピーな生活を期待している人たちは、早い目に逃げ出した方が得策かもしれません(笑)。
 
 この霊とのやり取りの10年後に、カルデックは「ここで述べられたことは、あらゆる点で本当であった」と振り返っています。

 ただ次のように付け加えています。

 しかし、苦難、困難にさらされる一方で、偉大な事業が驚くべき仕方で展開していくのを見ることは、またとない喜びであった。私の苦労は数多くの慰めによって報われたのである。霊実在論(スピリティズムの訳でしょう)によって慰められた数多くの人々から寄せられた真実の共感によって、どれほどの励ましを受けたことであろうか。
 こうした結果は〈真実の霊〉からはまったく知らされていなかった。〈真実の霊〉が私に困難だけを告げたのは、おそらく意図的だったのだろう。

 粋な計らいですね、〈真実の霊〉さん。表面的な明るく楽しくハッピーな生活は待っていなかったけれど、その努力と苦難にふさわしい果実がもたらされたのですね。

 アラン・カルデックと、彼にかかわった霊たちは、こちらがほれぼれとしてしまうぐらい、真面目でまっすぐな人たちですね。 

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2010年10月26日 (火)

こぼれ話~アラン・カルデック自伝~『天国と地獄Ⅱ』より

 前回の記事で紹介した『天国と地獄Ⅱ』には、訳者の浅岡夢二さんの計らいにより、「アラン・カルデック自伝」として、『遺稿集』の「自伝的ノート」の抄訳が収録されています。

 これは、カルデックのスピリティズムとの出会いや『霊の書』などの著作活動などにおける霊との交流の記録になっています。例によって、カルデックも知識人らしく、最初は霊現象に対してきわめて懐疑的な態度を取ります。しかし、次第に「起こっている事態がとてつもなく重大であるらしい」ということに気づきます。

 そして、その後のカルデックの態度に感心させられます。少し引用します。

 やがて、それぞれの霊人から、その境涯に応じた情報を得ることになっていく。

 それは、ちょうど、外国人から、その国に関する情報を教えてもらうようなものだった。各人から、彼が属する階級や境遇に応じたことを教えてもらえるが、あくまでも、それは個人的な情報にすぎず、それだけでは、国の全体について知ることは決してできない。さまざまな方面から情報を集め、それらを吟味し、比較し、照合し、その上で全体像をつくり上げるのは、われわれの役目である。

 そんなふうにして、人間と付き合うようにして霊人たちと付き合った。最もつまらない霊から、最も偉大な霊に至るまで、決してその言葉を鵜呑みにすることなく、あくまでも単なる情報提供者として扱ったのである。

 すごいですね。こうやって、『霊の書』や『霊媒の書』などが作られていったのですね。

 ある晩、家で、霊による物音が続いたことがあったそうです。そして、それは、どうやら当時執筆中だった『霊の書』について、霊の側から言いたいこと、というより気に入らない部分があったからのようでした。霊は具体的な修正点は指示せず、この章のこのあたりを読み返してみよと言います。そして、カルデックが再検討すると、確かに重大な誤りが見つかったそうです。その後も、霊からのアドバイスが繰り返されて、ようやく『霊の書』は出版へと至ります。

 こうしたカルデックの真摯で慎重な検証姿勢や、以前紹介したステイトン・モーゼスの真剣な霊との格闘などを改めて見ると、19世紀から20世紀にかけて欧米人たちが霊に対して取っていたこのような姿勢を、どうして私たちは失ってしまったのだろうと、本当に残念な思いがしますね・・・。21世紀の日本人もがんばらねば・・・。

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