イエス

2010年12月16日 (木)

ふたたびイエスについて~十字架のメッセージ

 1年前に「私にとってのイエス」という文章を書きました。『聖書物語』ぐらいしか読んだことのない人間によるイエス論でした。またまたクリスマスを前にして、イエス&キリスト教について書いてみます。

 私が愛読しているスピリチュアリズム・ブログ(http://blog.goo.ne.jp/tslabo)では、高森光季さんによる長大なイエス論が連載されていました。スピリチュアリストだからと言って、好き勝手なイエス像を展開している霊界通信などをもとにするのではなく、あくまでも聖書についての文献学的研究に基づいた高レベルのイエス論です。私など恐れ多くて全くコメントできませんでした(苦笑)。ただ、イエスについて多くのことを学びました。また、田川建三さんという異色の聖書学者のことも教えられ、『イエスという男』や『キリスト教思想への招待』などを読むことができました。

 キリスト教の大事なシンボルは十字架ですよね。私は、イエスが十字架で磔になったのは、きっとイエスの、あるいは、より高次元世界の戦略だったのだろうと想像しています。十字架への磔というシンボルは、現代のどんな優秀な広告会社もかなわないほどの圧倒的なメッセージ力があると思います。

 それは、イエスが「目には目を歯には歯を」という当時の常識をきっぱりと否定し、「右の頬をぶたれたら左の頬をも差し出しなさい」と述べた、その言葉との完全な言行一致性を示すものだと、私は理解しました。「悪い奴には逆らうな」「敵をも愛しなさい」とも述べたイエスが、「それはこういうことだよ」と見せてくれたのが十字架への磔ではないかと私は思うのです。そして、あなたたちにもこのような究極の利他性を示すことができるはずだと訴えているような気がするのです。

 しかし、キリスト教の世界では、そうではない解釈があることを知りました。イエスは、罪人である私たちを救うため、身代わりとして磔になったというのです。そのイエスを信じることで私たちの罪は帳消しになると・・・。いわゆる贖罪説ですね。

 この贖罪説は、スピリチュアリズムからは散々に批判されてきました。自らまいた種は自らが刈り取らねばならないという因果の法則を重んじるスピリチュアリズムから見たら、これは神の法を逸脱するとんでもない考え方ということになります。いや、常識的に判断してもとんでもなく都合のいい考え方に思えるのですが・・・。

 私は、この贖罪説というのは、キリスト教の長い歴史の中で、つい言い過ぎてしまった極論のひとつで、多くのクリスチャンはそんな風には考えていないに違いないと期待していました(いや、今も期待しています)。しかし、例えば、19世紀の牧師ステイトン・モーゼスは、インペレーター霊がこの贖罪説をはじめとするキリスト教の教義を批判するのに対して、激しく抵抗していましたね。それから、「こぼれ話~岡八朗さんと市岡裕子さんとゴスペル」という記事で書きましたが、現代アメリカの著名な伝道師が本当にこの贖罪説に基づく説教を力強く展開しているのを聞いて、少しショックでした。

 この贖罪説、キリスト教を国教化したローマ皇帝コンスタンティヌスあたりが捏造させたという説も読んだことがありますが、本当のところどうなのでしょうね。少なくともイエスの言動からは、そんな教えは導けないと思うのですが・・・。

 私は、やはりイエスの教えの本質は、強烈で徹底的な利他性だったのではないかと思います。それもイエスがみんなを救う利他性ではなく、みんなも利他的であれという教えだったと思います。十字架への磔はそのことを効果的に示す広報戦略だったのだ思います。乱暴な比較ですが、ブッダは45年ほどかけて丁寧に法を説いたにもかかわらず、その後の仏教は変質や迷走を重ねてしまったように思います。今やブッダの教えの原点を探ろうにもきわめて困難な状況にあります。これに対してたった1年半~3年程度といわれるイエスのきわめて短い布教期間にもかかわらず、イエスの教えの本質は、現代でもなお、伝わる人には伝わっているように思います。キリスト教会がイエスの死後、どれほど堕落したり、あるいは聖書が時の権力にどれほど改竄されたりしていっても、例えば中世のイタリアで、アッシジの聖フランチェスコが現れたり、現代にマザーテレサが現れたり、あるいは、無名の多くのクリスチャンが様々な利他的な活動に打ちんだりしているのは、まさにイエスの広報戦略が大成功を収めている証拠だと思います。あるいは少し飛躍すれば、現代はキリスト教文明が行き詰まっているなどと安易に言いたがる人たちもいますが、やはり人権や民主主義などの大切な思想を生みだしたのは西欧であり、そこにイエスの強烈なメッセージが何らかの影響を及ぼしているのではないかと思います。

 田川建三さんの『キリスト教思想への招待』には、「やっぱり隣人愛」という章があります。ここでは、一旦国教化したキリスト教を排除し、伝統的なギリシアの神々を復活させようとしたローマ皇帝、背教者ユリアノス(キリスト教側からみたあだ名です)の視点から、キリスト教の特徴が描かれています。キリスト教に反対する立場から見たキリスト教なら、「身びいきをまぬがれ、信用に値する」だろうというわけです。

 ユリアノスが、各地でギリシアの神々を復興させるべく、各地方の宗教担当に檄を飛ばします。(キリスト教を)「この上もなく発達させた理由は、他者に関する人間愛、死者の埋葬に関する丁寧さ、よく鍛錬された生き方の真面目さである」。「それぞれの町に救護所を多く設置せよ。外来者が、我々の人間愛にあずかることができるように。我々の外来者だけでなく、ほかの者たちにも、必要があればそれにあずかれるように」。(ユリアノスは、伝統の宗教よ、キリスト教に負けるな、キリスト教のいいところは真似て、復興せよ、と必死になりますが、成果を上げることなく終わってしまうようです。)

 ここで描かれているのは、「やっぱり隣人愛」というタイトルにも示されているように、利他的実践を真面目に重ねているクリスチャンたちの姿ではないでしょうか。やはり、十字架のメッセージは、伝わる人には伝わっているのだと私は思います。

 シルバーバーチなどの西欧の霊界通信では、キリスト教の教義を批判しつつ、イエスについては地球を浄化する霊団のトップなどと持ち上げられています。それが事実なのかどうかは、きっとそれほど大事なことではないでしょう。キリスト教文明圏へのリップサービスかもしれません(笑)。トップだの長だの総責任者だのといった発想が、そもそもこの世的ですものね。

 シルバーバーチは繰り返し他者への奉仕を説きます。それは、社会奉仕活動といった狭い意味ではもちろんないでしょう。シルバーバーチの説く奉仕とイエスが身をもって示した利他性-私には全く同じものに思えるのですが・・・。

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2010年3月30日 (火)

ベーシックインカムという夢~貧困と格差とスピリチュアリズム

  ベーシックインカムという構想がある。政府がすべての人に無条件で一定の基本所得を保障するというもので、200年以上前から提唱されてきたとも言われている。それが、貧困や失業が深刻化してきた現代日本において、最近急速に関心が高まっている。働いている人にも働いていない人にも、収入が多い人にも少ない人にも、老若男女を問わず、すべての人に一律に無条件に最低限の生活を支える所得が支給されるという。日本では、例えば毎月ひとり当たり5万~8万円が支給されるという試算もある。

 より具体的な内容や浮かんでくる様々な疑問や批判に対する回答は、専門のサイトや本に任せるとして、私はこの制度は様々な可能性を秘めた魅力的なものだと思う。また、この構想をめぐって面白いのは、貧困や格差に立ち向かう社会運動系の人たちからベンチャー系の起業家に至るまで幅広い人たちが支持を表明していることだ。テーラワーダ仏教系の人たちやスピリチュアリストたちの中にも積極的に賛成している人たちがいる。実は私自身も「悠々塾」というスピリチュアリズムを学ぶまじめな集まりの人たちから教えられて初めて知った。

 宗教やスピリチュアリズムにかかわる人たちは、社会の格差や貧困の問題にどのようにかかわるべきだろうか。この問いに対して、ひとつの正解があるなんてもちろん思っていない。ただ、大雑把には次のような3つの態度があるように思う。

1 個人の心の問題にのみ集中し、社会的問題にはかかわらない
2 慈善事業や慈善行為というレベルでかかわる
3 制度や社会の変革レベルの問題にまでかかわる

 このうち慈善行為にかかわる宗教者はよく見聞する。そして「慈善は解決にならない」という言葉もこれまでよく耳にしてきた。これは、「慈善の対象となる人の自助・自立を阻害する」という立場と「慈善では社会の不公正な構造そのものは変わらず根本的な解決にならない」という立場の両方からの批判だと思う。もっともな批判だとは思うけれど、貧困問題などに見向きもしない宗教者やスピリチュアリストが多数いることを考えると、慈善にかかわるだけでも立派なものだと私は思う。(蛇足ながら、自殺した友人が、日雇い労働者のための活動に関わっていたとき、「キリスト教系の人たちは頑張っているんだけれど、行政と対決するような場面では消極的だ」と嘆いていたのを思い出します。)

 自戒を込めて言うと、実は上のように立場を分類して、どちらがどうと言うのは、机上の空論が好きな頭でっかちの人が陥りがちな落とし穴なのだと思う。実際にはそれぞれのおかれた立場や環境、能力に応じて、できることをやっていくしかない。

 マザーテレサが1979年にノーベル平和賞を受賞した後、来日したことがある。私は高校生だった。日本の記者が「貧困の解決には社会改革が必要では」と問いかけたとき、彼女は次のように答えた。

 あるとき、裕福な人が私にいいました「なぜあなたは、貧しい人びとに魚を与えるのですか?その魚を捕る竿を、どうして与えないのですか?」と。
 そこで私は答えました、「この人びとは病気、飢え、疾患などをかかえていて、立つことすらできないのです。ですから私は、まず、食べることができる魚を与えています。自分で立てるようになったら、今度はみなさま方にお願いします。魚を捕ることができるように、その人びとに竿を渡してあげてください」と。

 実際に貧しい人たちと日々向き合っている、実践者ならではの答えだと思う。高校生のときに読んで感銘を受けて、いまだに印象に残っている。(そのやり取りが載っている本を実家から見つけ出してきました-講談社現代新書『生命あるすべてのものに』。ちなみに今年はマザーテレサ生誕100年だそうですね。)

 話は変わって、聖書をほとんど読んだことがない私だが、田川建三さんという異色の聖書学者の本を読んでイエスによる面白いたとえ話があるのを知った。

 ある地主が早朝に自分の葡萄畑のために1日1デナリの約束で労働者を雇った。その後、午前中や昼や夕方にも仕事にあぶれて立っている者がいたので次々と雇った。そしてその日の終わりに、すべての労働者に1デナリずつ賃金を払った。最初の労働者は不平を言ったが、地主は「最後に来た人にもお前と同じだけ払ってやりたいのだ」と答えたという。(マタイによる福音書20.1-15)

 この話の解釈はいろいろあると思う。ちなみに田川さんの教え子の大学生に感想を求めたら「不公平で納得いかない」という意見が多かったと言う。

 私は、このたとえ話を熱く語っているイエスの前に進み出て、実はあなた方の時代からは想像もつかないような豊かな社会になっている21世紀の日本というところで、それでもなお貧困や失業が世に溢れていて(こう言った時点で「信じられない!」と言われるかもしれない)、その解決策のひとつとしてベーシックインカムという構想があるのですが、いかがですかと尋ねてみたい気がする。

 もちろんイエスがベーシックインカムのことを語っていたなどというつもりはないけれど、このたとえ話に流れる精神とベーシックインカム構想とは見事につながっているように思う。イエスは力強く「賛成!」と言ってくれるような気がするのだが・・・。

(参考サイト)
ベーシックインカムええじゃないか
http://bieejyanaika.web.fc2.com/index.html

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2009年12月13日 (日)

私にとってのイエス

 もうすぐクリスマスです。我が家の8歳と6歳の子どもたちは、サンタクロースの存在に半信半疑になりながらも、プレゼントを持ってきてくれる日を心待ちにしています。それとは全く関係ありませんが(笑)、クリスマスを迎えるにあたって、イエス・キリストについて語ってみました。全く個人的なイエス像ですが・・・。

 私にとってのイエス

 小学校3年生の頃だったと思う。7歳離れた姉がめずらしく(?)、私の誕生日に本をプレゼントしてくれるという。ただし1000円以内という条件が付いた。姉と二人で書店に行って、私は好きな本を探した。『聖書物語』という本がどうしても気になった。ハードカバーでケース付きの立派な装丁の本だった。しかし、その本は1800円と予算の倍近くした。姉は当然のごとく難色を示した。私はあきらめて、1000円以内の本を探した。そして、次に姉に示したのは、何と980円の『聖書物語』だった。姉は呆れた顔をして、どうせ買うならと最初に選んだ1800円の『聖書物語』を買ってくれた。

 それは、児童文学などを専門とする山室静さんという方の作品だった。私はこの本をむさぼるように読んだ。旧約編は、壮大なスケールの大河小説のようで、次々と展開される物語に圧倒された。そして、新約編へと進んだ。私はここで、イエスの言葉と生きざまに圧倒された。「敵をも愛しなさい」とか「右の頬をぶたれたら左の頬を差し出しなさい」という言葉は、小学生の常識からは考えられない、びっくり仰天の発想だった。しかも、そのイエスは、最後には、わかっていながらあえて自ら十字架に磔になる道を選ぶ。私は震えるような感動というのをこのとき初めて味わった。

 私は、その後キリスト教を本格的に学ぶことも、教会の門をたたくこともなかったけれど(今から思えば不思議だが)、私にとって、イエス・キリストは、お手本にするにはあまりにすごすぎるけれど、心から尊敬すべき存在であり続けた。

 シルバーバーチは、私たちに対して、いつも慈愛に満ちた言葉で語ってくれるのに、キリスト教については、なぜかとても手厳しい。私は「どうしてあのイエスの教えを受け継ぐ人たちに対してそこまで厳しいのだろう」と不思議に思っていた。

 数年前、私は、ふとキリスト教の概説書を読んでみて、驚いた。そこで描かれるイエスの死後のキリスト教の歴史は、『聖書物語』で感動したイエスの言動とはかけはなれたものだった。イエスが説いた大事なこととはおよそ関係ないのではと思われるようなテーマについて、大論争が繰り返され、異端とされた側には激しい迫害が繰り返されていた。ローマ帝国に国教として受け入れられた代償として、聖書そのものが時のローマ皇帝に都合のいいように改竄されたらしいことも知った。

 スピリチュアリズムの立場からは、今で言うところのミディアムやチャネラーという存在が、ほぼ間違いなく魔女扱いされ、魔女狩りの対象として迫害されてきたという事実も見逃せない。イギリスで魔女に関する法律が廃止されたのは、ごく最近のことだという。

 シルバーバーチが「現在も私たちは毎日のようにイエスを磔にしているのです」と激しい口調で語るのもわかるような気がした。(もちろんシルバーバーチも個々の良心的なクリスチャンを批判するつもりはないことは繰り返し述べている。)

 一方、日本では、クリスチャンは人口の1%にも満たないのではないかと言われている。その比率は江戸時代に迫害されていた隠れキリシタンよりも少ないという説も聞いたことがある。しかし、たとえば、戦時中に軍国主義に抵抗した人たちにはクリスチャンの人たちが多くいた。また、現代日本においても、発展途上国の貧しい人たちのために活動するNGOや、日本国内の日雇い労働者やホームレスの人たちのために活動する団体の現場では、驚くほどクリスチャンの人たちに出会う確率が高い。ここには、私が『聖書物語』の中に見たイエスの精神が確かに息づいていると思う。

 私には、キリスト教の三位一体とか原罪とか贖罪とかいった難しい議論はよくわからない。私にとってのイエスは、いつでも、あの山室静さんの『聖書物語』の中で輝いていたイエス、絶対に真似はできないけれど尊敬すべきイエスだと思っている。

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