アセンション

2013年3月20日 (水)

上祐史浩著『オウム事件17年目の告白』を読んで~善悪二元論を超えて

 かつて「ああ言えば上祐」と揶揄されたオウム真理教のスポークスマンだった上祐史浩氏による総括の書『オウム事件17年目の告白』を読みました。

 オウムが引き起こした事件に関する部分は慎重な言い回し(「○○についてはロシアにいたので知らなかった」など)に終始している感はありますが、事件についてはすでに様々な人たちが調べたり語ったりしてきているので、ここで問題にするつもりはありません。

 私が注目したのは、オウムの思想に対する総括です。上祐氏は、オウム真理教が改名したアレフにおいて改革を進めようとしましたが、内部分裂を招き、新団体「ひかりの輪」設立に至ります。そしてその「ひかりの輪」との違いを述べるなかで、彼はオウムの思想を次のように総括します。

 「一方、麻原・オウム真理教の思想の特徴は、善悪二元論だった。自分たちこそが預言された、生き残るべき神・キリストの善業多き魂の集団で、残りの社会の大半は滅ぶべき(ポアされるべき)悪業多き魂として、世界を善悪で二分化するものだ。
 しかし、これは、明らかな妄想だった。自分たち=教団に関しては誇大妄想であり、他者=社会に対しては被害妄想を抱くものだったのである。」

 これは、非常に鋭く、的を射た指摘ではないかと思います。
 これに対して、現在の上祐氏は一元論的な思想を主張します。

 「この一元論とは、万物が繋がっているという、万物の一体性を強調する思想である。釈迦牟尼の中核の思想である「縁起の法」も一元論である。如何なるものも、他から独立して存在していないと説くものだ(万物相互依存)。」

 麻原への盲信から脱却するなかで大乗仏教を中心に学んできた人らしい表現になっていますが、私も基本的には同意できます。おそらく仏教の無我とか縁起という思想も、ニューエイジで言われるワンネスも、スピリチュアリズムで語られる類魂や私たちは神の一部という考え方も、同じようなことを言っているのだろうと、私は思っています。(以前「仏教とスピリチュアリズム(1)~(4)」でこれに近いことを書きました。)

 問題は上祐氏が言うところの善悪二元論です。これに近い発想もニューエイジやスピリチュアリズム周辺のあちこちに転がっていないでしょうか。

 実は上祐氏と私はほぼ同世代です。つまり同じ時代背景を共有しています。私たちは小学生時代から、ノストラダムスの予言により、1999年7の月に人類は滅亡すると脅されました。そして中高生時代、米ソは激しく対立し、核戦争の危機が目前に迫っているように感じました。しかし、政治は腐敗していて、その危機を回避してくれるようには見えませんでした。アフリカなどでは飢餓が蔓延し、エイズなどの新たな病気も発生し、このままでは人類は本当に予言どおり滅亡してしまうのではないかと思いました。

 何とかしなくてはいけない-そういう問題意識そのものは尊いものですが、それが善悪二元論と結びつくと、とんでもない怪物が生まれることになります。

 腐敗・堕落しきった人類を滅亡から救うのは私たち=正しき者であるという「誇大妄想」。私たちは正しき者であるのに、なぜか社会の多数派にはなれず、勢力が伸びない。それどころか多数派から批判的に見られる。多数派の裏には「闇の勢力」がいて、私たちと敵対し、妨害してきているに違いないという「被害妄想」。そんな風に認識してしまうと、これからの歴史は「正しき者」と「闇の勢力」との戦いであると見なしてしまい、私たち=正しき者は最終的に勝利し、「闇の勢力」側に加担した人たちは滅びる運命にあると考えてしまう。

 こうした考え方を私はあちこちで見聞するように思います。しかも、一方で「一元論的な思想」を主張しているはずのニューエイジやスピリチュアリズムの周辺で、です。

 私が高校生のとき、友人に連れられて行ったある新宗教の道場の壁には「人類のエリートとしての自覚を持ちましょう」と書かれた貼り紙がありました。

 近年流行りのアセンションについては、その言葉を使う人によって意味が多様なので、一概には言えませんが、善悪二元論的な色合いが非常に濃いと思います。アセンションについては、4年ほど前に「『宇宙人のしゅくだい』~アセンション論議に思う」という記事を書きました。最近になって初めてこの記事にコメントをいただきましたが、その中にアセンションを待望する善悪二元論的な発想を感じたので、結構必死になって反論を書いたりしました。

 決して清く正しく美しいとは言えないこの世界。腐敗や堕落が溢れかえっている世界。でも、そこで「正しい我々と間違っている奴ら」という発想に陥ってしまったら、その先はオウムへの道ではないでしょうか。

 そういう意味で、上祐氏の言う「自他一体の一元論」という考え方には共感できます。ただ、これは上祐氏が言っているわけではないですが、これまでの西洋キリスト教文明ではだめでこれからは東洋仏教文明だとか、○○の時代が終わって△△の時代だというような、よく聞く発想も安易すぎるように思います。決して揚げ足取りをしたいわけではなく、そういう言い回しの先に、悲惨な結末が待っていたという事例もこれまで多数あったからです。確かに時代が大きく動いて、大どんでん返しが起きるということは歴史上あります。しかし、その前後で何もかも変わってしまうのかというと、人間は意外と同じようなことで悩み、壁にぶち当たり、過ちを犯し、反省していくものではないでしょうか。A時代がB時代に変わったからと言って、A時代に抱えていた問題が全て解決するようなものではないと思います。

 話が広がってしまいましたが、スピリチュアリズムの立場から言えば、醜いものも抱えている世界を私たちはあえて選んで生まれてきたはずです。4年前の記事の繰り返しになりますが、世界を一気に変えてくれる大どんでん返しを待ち望むのではなく、自分自身が選んだ時代や環境の中で、日々の営みをひとつひとつ丁寧に生きていくことにこそ、人生の意義があるのではないでしょうか。

 上祐氏の総括と反省を読みながら、これは私たちスピリチュアリストも心しなければいけない問題だと改めて思いました。

(追記)

 上祐氏は、一元論的世界観につながるものとして聖徳太子の十七条憲法を紹介しています。確かにとてもいい文章なので引用させていただきます。

 「自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは鐶(たまき)には端がないようなものだ。」(十七条憲法第十条)

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2011年12月25日 (日)

大田俊寛著『オウム真理教の精神史』を読んで~異質だけれど近いもの

 オウム真理教事件の一連の刑事裁判が終結しました。この事件はスピリチュアリズムを含む精神世界にも大打撃を与えたと言われています。

 事件が世間を騒がせていた1995年頃、今は亡き私の父が「お前もあの集団のなかにいてもおかしくはないな」と、からかうように言ったのを覚えています。宗教だのスピリチュアルだのというものが大嫌いな父でした。息子が宗教的なものに関心をもっているらしいことを苦々しく思っていたのでしょうね。

 しかし、私にとっては実はオウム真理教はほとんど関心の外にありました。空中浮揚などをアピールする超能力志向には違和感があったからでしょう。当時、論争相手と言われていた幸福の科学の方が、まだスピリチュアリズムと重なる部分もあり、少し関心をもっていたぐらいです(両教団は、「朝まで生テレビ」で直接対決もしていたのですよ。何と麻原氏本人が出席していました。特別の椅子を用意してもらいながら・・・)

 大田俊寛著『オウム真理教の精神史 ロマン主義・全体主義・原理主義』を読みました。精神世界に関心がある者にとっては、たまらなく面白く、かつ、ためになり、しかもとてもレベルの高い研究書だと思いました。著者は1974年生まれの新進気鋭の宗教学者です。この新進気鋭の学者は、これまで社会学者や宗教学者によってなされてきたオウム研究を手厳しく批判します。そして、宗教学者の責務という自負を持ちながら、オウム真理教の思想と行動の成り立ちについて詳細に分析していきます。

 その分析の結論は、サブタイトルに示されているとおりです。近代において、「人間の理性」を基礎的な原理に据える「啓蒙主義」に対抗して現れた「ロマン主義」、近代的な群衆社会の中から生まれた「全体主義」、聖書に記された終末論を文字通りに信じる「原理主義」の3つです。

 これらの思想と行動を歴史的に跡付けていくと、そこにもここにもオウム真理教とそっくりのものが現れていることがわかります。そして、オウム真理教は仏教系教団を名乗ってはいたけれど、その思想の源泉は仏典などではなく、これらロマン主義・全体主義・原理主義の思想をチャンポンのように取り込んでいったオカルト系の諸思想であることが明らかにされていきます。見事な分析だと私は思います。

 そういえば、私がオウム真理教の存在をなんとなく知っていたのは、学生の頃『ムー』や『トワイライトゾーン』といういわゆるオカルト系雑誌を読んでいた時期があり、そこで目にしたからではないかと思います。(オウム真理教自身が、これらの雑誌から学んだのではないかと言われています)

 ロマン主義・全体主義・原理主義・・・これらの詳しい内容は、著者の手際よい解説に任せるとして、私はその説明を読んでいると、現代の精神世界のそこにもここにもオウムにとても近いものが潜んでいるように思いました。

 スピリチュアリズムはどうなんだという突っ込みもあるかもしれません。私は、シルバーバーチに代表される近代スピリチュアリズムは、似て非なるもの、異質なものだと思っています。著者の主義の分類で行くと、どちらかと言うと合理性や科学性を重んじる「啓蒙主義」の方に近いのではないかとさえ思います。

 ただ、だから安心とは言えません。例えば、(軽薄スピリチュアルとは一線を画する)硬派スピリチュアリストから高い評価を聞くことが多い葦原瑞穂著『黎明』などは、シルバーバーチの引用などもありますが、上で触れられているような諸主義の世界、オカルト系知識などを集大成したという感があり、その幅広い知識と知的水準の高さには感心しますが、正直言って共感できませんでした。少し危険な香りもします。

 まもなく2012年ですね(笑)。最近の精神世界で騒がれているアセンションなどは、上で言うところの原理主義による終末論の、一体何回目の焼き直し?というところでしょうか(笑)。

 笑ってばかりもいられません。スピリチュアリズムに関わっていると、そこにもここにもオウム的な落とし穴があるということなのだと思います。私は異質なものだと思っていますが、それでも近いところにあるのは確かなのでしょう。スピリチュアリストとして心しなければいけませんね。

 2012年を楽しみに待ちましょう。

 皆様、よいお年を!

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2009年7月23日 (木)

『宇宙人のしゅくだい』-アセンション論議に思う

 「スピリチュアル」に関する様々な思いを書いていきたいと思います。

 まず最初は、昨年、ある団体の機関誌に投稿した文章です。小松左京さんの子供向け短編集の話を手がかりに、今スピリチュアル界で喧しい「アセンション」について批判的にコメントしています。かなり力んで書いた文章ですが、お読みください。

『宇宙人のしゅくだい』-アセンション論議に思う

 小松左京さんの短編集『宇宙人のしゅくだい』は、子供のときに大好きだった本のひとつで、今、小1になる我が子にも読んで聞かせてあげている。その中の「宇宙人のしゅくだい」という作品では、少女が宇宙人に遭遇する。動物や植物が大好きという少女に、宇宙人は「報告とちがう」と首をかしげ、「地球人は、植物や動物を根絶やしにしようとし、しょっちゅうおたがいにくみあい、ころしあったりしているので、いまのうち、地球をほろぼしてしまおうか、と思っている」と言う。少女は、地球の人たちは、ほんとうはみんないい人たちだと訴え、「わたしたちが、おとなになったら、きっと戦争のない星にして、地球をもっともっと、たいせつにする」と約束する。

最近、「アセンション」という言葉をよく目にする。様々な説があるようだが、代表例のひとつは、はるかかなたのプレアデス星団からのメッセージで、2012年頃に地球が丸ごとアセンション(次元上昇)する予定であり、アセンション後の地球に行けるのは、意識覚醒した人たちだけで、その前に様々な天変地異が起こるという。

私はこのようなメッセージに違和感を覚える。もし、プレアデス人たちがそのようなことを計画しているのだとしたら、そんな勝手なことはおやめ下さいと言いたい。私たち地球人は、一人ひとりがそれぞれの課題を背負って、それぞれの予定表の中で一生懸命生きているのですよ。それをある特定の時期に、それぞれの状況におかまいなしに丸ごとアセンションなどとは少々乱暴に過ぎませんか?

私たちは、自分の努力ではどうしようもないような閉塞感を背負ってしまったとき、何か大どんでん返しみたいなものに期待したくなることがある。オウム事件のとき社会学者の宮台真司さんは、日常生活の閉塞感に耐えかねて「終末」の到来に期待する若者たちに向って「終わりなき日常を生きろ」と訴えた。人生に意味なんか求めるなと言う宮台さんとは違った立場で、私は同様のメッセージの必要性を感じる。

キリスト教では、いつか「最後の審判」の日が訪れて、天国行きの人と地獄行きの人に仕分けされると信じられているという。巷のアセンション論議は何かその焼き直しのような気もする。これに対して、スピリチュアリズムでは、一人ひとりに自分自身が課した「宿題」があって、この物質界において、その宿題が何であるかを見極め、きちんとこなしていくことになっている。そして、人生の「卒業」後、身内や指導霊に導かれながら、宿題の出来具合を自分で審査すると言われていて、これがいわば「最後の審判」にあたると考える。私は、この方がずっと理に適っていて、神の公正さという点からも納得がいく考え方だと思う。

スピリチュアリズムの素晴らしい点は、「生きていくことの意味」を教えてくれることだと思う。そして、そのことにより人生や世界との関わり方において決して虚無的にならず、前向きになれることだと思う。日常生活のささいなことにも意味を見出し、前向きになれたら、もはや私たちは終末や大どんでん返しを待ち望む必要はない。「終わりなき日常」は決して無味乾燥の砂漠ではなく、意味に満ち溢れたものであることがわかるからである。

宇宙人が言うように、確かに人間社会は不公正に満ちているかもしれない。しかし、少女が訴えたように地球人は「ほんとうはみんないい人たち」だからこそ、多くの反省もし、進歩も重ねてきた。そして、私たち一人ひとりが家庭で、地域社会で、あるいは国際社会において、それぞれの立場や能力を活かして、今なお残る不公正を改善していくところに「生きていくことの意味」があるのだと私は思う。

神や高次元の存在は、人類の進歩について、決して期限を切ったりしないと思う。私たち一人ひとりが宿題に取り組み、失敗も重ねながら成長していき、何千年後か何万年後かわからないけれど、宇宙人が目を見張るような素晴らしい地球へと進化する。そのときが来れば、それをアセンションと呼んでもいいのかもしれない。

私は、この世を卒業するとき、子供たちに対して「お父さんはここまで宿題を仕上げたよ。次はお前たちの番だね」と言って、誇りと愛情をもってこの地球を引き継ぎたいと思う。(2008年10月)

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