友人の自殺

2013年6月21日 (金)

自ら死を選んだ魂について(3)~飯田さんの驚くべき説

 蛇足かもしれませんが、飯田史彦さんの説を紹介します。ご存知のとおり、飯田さんは経営心理学がご専門の大学教授でしたが、近年は教授の職を辞され、スピリチュァリティ・カウンセラー業(飯田さんの表現です)に専念しておられます。飯田さんは著書『生きがいの創造Ⅱ』にあるように、自殺した霊からの依頼を受けて、その遺族に接触し、橋渡しをするというボランティアをずっと続けてこられました。つまり自殺した霊については経験が豊富な霊能者と言っていいでしょう。

 飯田さんは『生きがいの創造Ⅱ』において、自殺者は「反省の闇」に自ら入るという言い方をされています。地獄という世界があるわけではなくて、自らの意思で自分を真っ暗闇で覆ってしまうのだと。これは、私が考えてきたこととほぼ同じだと思います。前回紹介した私の友人もまさにそういう状態ではなかったかと思います。

 その飯田さんが近著『生きがいの創造Ⅴ』で、さらに踏み込んだ驚くべきことをおっしゃっています。なんと「予定通りの順調な自死」というものも存在し、その場合には、一切反省する必要もなく、死後すぐにまぶしい光の姿になるというのです。

 このことは誤解されて自殺の容認になってはいけないという配慮から、なかなか公言できなかったと言います。

 「予定通りの順調な自死」の飯田さんの説明はこうです。

 「人は、数多くの人生を生きながら、さまざまな人生経験を積んで学びます。その中には、この物質世界に生まれて来なければ経験できないこと、つまり、死ぬこと、病気や障害を持つこと、人間関係で悩むことといった、重要な学びのテーマが含まれています。」

 「さらに、その中でも、「死を通じて学ぶ」というのは、とても大切な修行課題です。だからこそ、我々は、数多くの人生で、さまざまな形の死を経験することが必要であり、その「さまざまな死の形」のひとつとして、自分で命を絶つこと、つまり自死というパターンが含まれているようなのです。したがって、我々は誰もが、いつの時代かに生きる、どれかの人生において、何らかの理由で自らの命を絶つという辛い体験を味わい、そこから多くのことを学び、周囲の家族や関係者たちにも、多くのことを学ばせるという役割を担わなければならないのでしょう。」(『生きがいの創造Ⅴ』より)

「そうそう、僕は身を挺してきみたちに多くのことを学ばせてあげたんだよ」とわが友がほくそ笑みながら語るのが聞こえてきそうです。

「何を言うか、しばらくは反省の闇で苦しみ悶えていたくせに!」と言い返してやりたいです。

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2013年6月18日 (火)

自ら死を選んだ魂について(2)~友の場合

 私の友人は4年ほど前に自殺しました。このことは何度か書いてきました。3人のミディアムの方が彼の様子を伝えてくれました。その情報がもとなので、客観的に絶対正しい情報であるとの保証はありません(あの世の情報はすべてそういうものですが)。そういう前提で参考にお読みください。

 まず、ミディアムAさんが、彼の死後の様子を伝えてくれました。

 「お顔がよく見えませんね。うつむいていらっしゃる感じです。この方は病気で亡くなったのではないようですね」-ミディアムの方が言った。

 「最近、友人が自殺しました」-私は答えた。

 「何かおどおどして、ぼそぼそと話されています。ご自分を責めていて、ご両親や友人たちに申し訳ないとおっしゃっています。みんな自分の悲しみで精一杯の様子で、あなただけが冷静に受け止めてくれている。みんなには感謝もしているし、楽しい思い出もたくさんある。そのことを伝えてほしい。あなただけが頼りだとおっしゃっています」

 私は友人からのメッセージだと確信した。

 彼が亡くなった直後、遺体の安置されたお寺には、多くの友人たち、そして遠方からは悲しみにうちひしがれた年老いたお母さんがかけつけた。私は心の中で彼に語りかけた。「こうなってしまった以上、コミュニケーションが取れるのは僕だけだぞ。何でも僕に伝えてこい」

 彼は長い間、重いうつに苦しんできた。強い自殺願望もあった。「人生に意味はない」といつも頑なに主張した。その一方で、親より先に死んで、親を悲しませてはいけないと考える優しい奴だった。また、責任感や正義感がとても強く、有能で完璧主義の男だった。(「友の死~悪戦苦闘こそ人生」より)

 このときの彼の様子は、誰ともコミュニケーションがとれず、ただミディアムを通じて私とだけはかろうじてコンタクトできたというような状態でした。ひょっとしたら暗闇の中にいたのかもしれません。それを地獄に落ちていると表現する人もいるかもしれません。でも、彼の死を悼む人たちの状況を把握しているようですし、その人たちのことをおもんばかっている様子でさえあります。ポジティブな考えも表明しています。前回紹介した、高橋さんが描くような暗黒地獄にいるのとはかなり様子が違うように思います。

 続いて別のミディアムBさんを通じて彼は現れました。

 セッション後半は半年ほど前に自殺した友人が現れた。今なお孤独に苦しんでいる様子だった。ミディアムの方が頭が痛いとおっしゃった。彼が飛び降り自殺をしたときに頭に強い衝撃を受けたであろうことにそのとき初めて思い至った。これも驚きだった。まわりの守護霊の皆さんから、私が彼に愛の念をもって語りかけることをお願いされてしまった。それによって真実に気づけば賢明な彼の成長は速いはずだからと・・・。(「『第2の江原を探せ!』~新たなステージの予感」より)

 このときの彼の状態は、Aさんのときとほぼ同様でした。地獄に落ちたままと言う人もいるかもしれません。地獄があるのかどうかという議論は、実は地獄の定義がはっきりしていないので水かけ論に終わると思われます。ただ、多くの人がイメージする地獄とは、閻魔大王ではないにしても、何らかの上位の存在(法則でもいいですが)が、その魂の犯した罪(自殺)を判定して、そこに行かせるというものではないでしょうか。

 そういうイメージからすると、彼の状態はかなり異なります。まず、彼のまわりには守護霊だか指導霊だかといった彼を救おうとする多くの魂がいたことです。しかし彼が目を塞ぎ耳を塞ぎ心を閉じていたがためにそのことに気づいていないだけでした。

 私は頼まれたとおりに彼に語りかけ、彼のまわりにいる霊たちの存在に早く気づけと訴えました。以下はそのあとのことです。ミディアムは同じBさんです。

 その約2週間後のサンデーサービスの場に、彼は再び現れた。私の語りかけのおかげで随分と目覚めてきたという。そして、彼の母親がいまなお自分を責め続けて苦しんでいる様子なので、母親のせいではないこと、今の彼の状況などを、母親宛に手紙でも書いてほしいという。そのタイミングに合わせて彼も母親の夢の中に出るようにするから・・・と。

 何とも注文の多い友人の霊とその守護霊たちである(笑)。

 できるだけのことをしてあげようと思う。。(「『第2の江原を探せ!』~新たなステージの予感」より)

 このときBさんは、彼の様子が2週間前とあまりにも違うことに驚いたとおっしゃっていました。何か堂々としているような様子だと。そして、彼はこんな風に語りました。「生前からずっと自分はひとりぼっちだと考えていたが、それが大きな間違いだった。こんなにも多くの存在に見守られ支えられていたことを知らなかった。それを知っていたら自殺なんてすることもなかっただろう」と。

 自分を見守る多くの存在に気づいた彼。この世に遺された友人・知人や母親のことを思いやり何とかしたいと考える彼。彼は地獄のような状態から救い出され、見事に立ち直ったと言えるのではないでしょうか。

 自殺するときの苦しい精神状態というのは筆舌に尽くしがたいものでしょう。であれば、死の直後にその苦しい状態が続くのは当然です。でもそれは最大級の罪を犯したことに対する罰なのではなく、単に、そういう精神状態が続いたというだけのことではないでしょうか。そして、そこから救い出したいと必死に努力する魂はあの世にもこの世にもたくさんいるのです。ひどい罪を犯したからあなたはダメなどと烙印を押す存在などいないのです。

 さて、Bさんに現れたあと、彼は別のミディアムCさんにも現れました。

 そのときは、彼の名前の一字を垂れ幕に書き込んで示す映像が現れたそうです。「○という字を書き込んだ垂れ幕を見せているのですが」とCさんは不思議そうに言います。それが何を意味するのかさっぱりわからない様子で、全く別の解釈をしようとされていました。しかし、私にはすぐにわかり、そのふざけ心に吹き出しそうになりました。彼はユーモアを発揮するまでに元気になっていたのでした。

 どうでしょうか?

 自殺した魂は救われない=地獄行きなどというのは、あまりにも安易で一面的な主張だと思いませんか?

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2013年6月13日 (木)

自ら死を選んだ魂について(1)

 自殺・自死について書きます(近年は自殺に代わって自死という表現もよく使われます)。

 最近、自ら死を選んだ魂は救われないのだろうかという問いを受けました。
 私の端的な答えは「そんなはずはない」ですが、もう少し丁寧に書いてみたいと思います。

 自殺した魂は救われないとか、地獄に落ちるという説をあちこちで聞きます。もちろん自殺はすべきではないし、身近に自殺を考えている人がいたら、何とかして防ぎたいと考えます。以前書いたように、私の友人は長い間、自殺企図をもっていて、何とかしたいと思いましたが、ついに防ぐことができませんでした。そしてその後、周囲に本当に大変な苦しみや悲しみを生み出してしまいました。

 しかしそのことと、魂が救われるかどうかは別問題です。

 以前「仏教と自殺~『ルポ 仏教、貧困・自殺に挑む』を読んで」という記事を書きました。その中で仏教教団が仏典からブッダの自殺観を調べたという話を紹介しました。その結論は「釈尊は自殺について価値判断をしていない」というものでした。決して自殺を容認しているわけではなく、「仏典は、ぎりぎりのところまで「生きろ!」と呼びかける一方で、自殺という行為そのものについては、良いとも悪いとも語っていない」というのです。

 自殺問題に取り組むNPOライフリンク代表の清水康之さんはこうした取組みに一定の評価をしていました。彼の発言を改めて引用します。

 「社会問題となっているのは、ほんとうは生きたいのに追いつめられた結果としての自殺です。それを悪や罪としか語れない思想は貧弱。どれほど多くの遺族らが傷つけられたでしょうか。仏教もキリスト教も取り返しのつかないことをしてきたわけです。信頼回復は簡単ではありませんが、原点に返り、現実的な姿勢を取りはじめたのは心強い。弱い立場の人間に寄り添い、声なき声に耳を傾ける。宗教界がそうした本来の役割を果たすため、どう踏み出していくのか見つめたいです」

 では、スピリチュアリズムはどうでしょう? やはり同じように悪や罪と語ることが多いように思います。

 私が強烈に印象に残っているのは、高橋信次さんの説明です。高橋さんは、新宗教の巨人と呼ばれ、後の多くの新宗教にも影響を与えた方です。高橋さんの死後、彼の作った教団や後継の人たちには様々な混乱もあったようですが、彼の卓抜した霊能力については立場を超えて多くの人たちが証言しています。私は高校時代に高橋さんの著書からスピリチュアリズム的な考え方をはじめて知り、その後、シルバーバーチに出会いました。著書から推測するだけですが、人格的にもすぐれた方だと感じていました。

 彼の著書の自殺に関するくだりを改めて読んでみました。

 「自殺は調和という神の目的から、大きくはずれた行為であり、神にたいする冒涜、反逆であって、人間否定を意味します。ですから悪のうちでも、自殺は最悪の部類にはいります。」「自殺者の死後の世界は暗黒地獄です。一寸先分らぬ真暗な穴倉のようなところに閉じ込められての苦しみの連続です。鼓膜が破裂しそうな轟音が鳴り響くところとか、得体の知れぬ生物が意識のなかに入り込んでかきむしるのです。」(高橋信次著『心の対話』)

 強烈でしょう?
 でも、よく読むと、高橋さんも一方的には決めつけていません。一定の留保をつけています。

 「自殺も、さまざまな内容を伴い、各種にわかれています。戦争という異常事態における自殺(たとえば特攻隊)もあれば、・・・・たとえば家族の迷惑を考え、ひと思いに生命を絶っていく療養生活の長い老人。形はどうあれ、いちばん問題なのは、本人のその時の想念のあり方にありますが、」(同書)

 しかし、人はたいていこういう留保には気づかず、上の強烈な部分ばかりが記憶に残るものです。いや、私がそうでした(苦笑)。

 最近の自称スピリチュアルカウンセラーの中には、友人が自殺してもう少しで大変な地獄に落ちるところを私が救いだしたというような話をしている方もいます。

 果たして、どうなのでしょう? 自殺・自死した魂は地獄行きなのでしょうか?

 そんなことはないと私は思います。そもそも地獄という世界の存在に対しても私は懐疑的です。

 次回は、私の友人をめぐるささやかな経験から考えてみたいと思います。

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2010年2月11日 (木)

生きる意味~スピリチュアリズムの本質

 ストレートど真ん中のようなテーマを設定してしまいました(笑)。理屈っぽいですが、よろしかったらどうぞ。

生きる意味~スピリチュアリズムの本質

 スピリチュアリズムの考え方に触れて、とても納得感があり、これはきっと真実に違いないと思えたのはなぜだろうと考えてみる。私は、それは、「死の恐怖」から解放してくれるとともに、「生きる意味」を合理的に教えてくれるからだろうと思う。
 私は幼い頃、母親から「良い子」は死なないと教えられ、しばらくのちに、実はすべての人がいつかは死ぬと明かされて、大ショックを受けた。小学生の頃、改めて、大好きな両親も友達も、テレビ画面の中でにこやかに演じている俳優たちも、みんないつかは死ぬんだという現実に思いいたって、絶望的な気持ちになったのを覚えている。
 もうひとつの難問は、「何のために生きるのか」だった。この世界はなぜ存在し、人が生きる意味は何なのか。いくら考えても答えが出そうになかった。文学的な表現は世にいくらでもあふれていた。「生きる意味をみつけるために生きるのさ」みたいなセリフもそれなりにかっこいいが、答えになっていないと思う。合理的で説得力のある答えには出会えなかった。
 一昨年に自殺した、哲学や文学にも造詣が深かった友人は、「人生に意味はない」といつも主張していた(社会学者の宮台真司さんも同じ主張を展開している)。私は、「意味があるか、ないかは証明不能だ。意味がないと決め付けるのはまだ早い」と反論するのが精一杯だった。
 実は人間の論理的思考力なんていいかげんなものだ。小学生の頃、誰かが話す言葉に「なぜ」と問い詰める言葉遊びが流行ったことがある。問われた人が答えるとそれに対して「なぜ」と問い続けていく。すると必ずどこかで答えに窮してしまう。
 宇宙の果てについて思いをめぐらすと、とても落ち着かない気分になる。果てがあると言われても、私たちの日常的思考力は「ではその外は?」と必ず問いたくなる。時間についてもそうだ。ビッグバンから時間が始まったなどと言われても、「その前は?」と問いたくなるのが人情だ。
 私たちの論理的思考力は、究極の問いには答えることができない(数学の世界でも同様の議論があるという)。「人生の意味」というのも実はその種の問いにあたると思う。私が友人に反論したのはそういう趣旨だった。(実に理屈っぽいやりとりをする間柄でした)
 しかし、スピリチュアリズムはこれに答えを与えてくれる。私たちは肉体の死をもって終わる存在ではなく、霊的存在だという。そして「この世」の外側に、「この世」を含むより大きな霊的世界が存在するという。私たちは永遠の旅路を進む「霊」であり、その成長をめざして修行するために「この世」に生まれてくるという。しかも、この世界での自分の能力や個性、両親、生まれてきた環境、出会うべき人などについては、すべて自分の課題に応じて自分自身が設定したものだという。「人生に意味はない」なんてとんでもない!ということになる。
 私はとても合理的で説得力があって、しかもロマンティックで感動的とさえ言ってもいいような考え方だと思う。経営心理学者の飯田史彦さんは、仮にそれが真実ではないとしても、そう信じて生きるだけでも価値があるという趣旨のことを主張されているが(『決定版生きがいの創造』)、一理あると思う。
 もちろん、論理的にはこれは完全な答えではない。少し考えれば、では、霊はなぜ成長しながら果てしない旅を続けるのかとか、霊的世界は何のために存在するのかといった問いを立てることは可能だ。やはり問いは無限に続くのである。
 しかし、もはや純真な若者とは言えなくなって、ちょっと老練になった私(苦笑)は、思う。それは次の楽しみに取っておけばよい。人間のいいかげんな論理的思考力では所詮、答えは得られない。さしあたっては、この世での生きる意味を納得しただけで良しとし、ここでの修行をしっかりと続けよう。その後のことは、そのときに考えればいい、と。
 先に「あの世」へと旅立った友人は、何て言うだろうなあ・・・。

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2009年8月28日 (金)

『第2の江原を探せ!』~新たなステージの予感

 初の未発表原稿です。

 『第2の江原を探せ!』という本を紹介しながら、後半は前回の「友の死~悪戦苦闘こそ人生」の続編のような内容になっています。

「新たなステージ」などと書いてますが、私個人に関しては、そういう言葉の心地よい響きとは違って、なかなかの悪戦苦闘をしています。それはまた別の機会に・・・。

『第2の江原を探せ!』~新たなステージの予感

 ジャーナリストたちが「スピリチュアル」を検証した『第2の江原を探せ!』(扶桑社)。そのタイトルの軽薄さとは裏腹に、実に真面目な調査報告だと思う。参加しているのは、大企業の商品を告発した『買ってはいけない』を企画した人物やチェチェン紛争を現場取材してきた人物など、いずれも硬派ぞろい。およそスピリチュアルなるものが似合いそうにない人たちばかり。実際、5人の執筆者のほとんどが否定派か無関心派だった。著者たちの問題意識はこうだ。

「空前のスピリチュアルブームの中、肯定派は権威に頼って頭から信じ込み、否定派は事実にもとづかない全否定を行うため、議論が噛み合わない。不毛な議論をする暇があったら、現場を取材し、江原氏の唱える仮説を実際に検証するほうが、はるかに有益ではないか。もはや、その時期にきていると思う。」

 近代スピリチュアリズム草創期には、欧米の科学者たちがSPR(心霊研究協会)を舞台に心霊研究を行い一定の成果を収めてきた。私は、スピリチュアルブームの只中にある日本においても、こうした検証が必要だと常々思っていたので、今回の試みを大いに歓迎したい。

 著者たちは評判の高い16人のスピリチュアルカウンセラーのカウンセリングを次々と受けて、その内容の的確さや守護霊・前世の一致度を検証していく。その結果、ニセモノもいたが、不思議な力を持つと全員が認めざるをえないカウンセラーもいて、当初懐疑的だった著者たちが全否定できなくなってしまった。守護霊や前世については否定的な結果となったため、霊や霊界の実在については意見が割れたが、全員が「何かがみえている」と認めたことは画期的である。そしてこの結論もかつてのSPRのものに近い。

 著者の一人は、スピリチュアルというのは現世からの「逃げ」だと思ってきたが、今回の検証作業を通して、「信じる者は救われる」という安易なものではないということがわかったという。むしろ自分の魂が何ものであるかの示唆を受け、弱点や課題を理解しながら、どう修正し、磨いていくかを考えるきっかけになったとのこと。彼は、次のように結んでいる。

 「自分の魂というものを理解し、軸をもって人生の課題に取り組めるようになるという点でスピリチュアルは意義深いものだ、と思った次第である。」

 私は、このような認識に早くも到達していることに感心するとともに、本書の登場が日本のスピリチュアル界の新しいステージの幕開けになるのではないかと期待している。

 さて、ここから私事になる。実は、私も本書の著者たちと同様の問題意識のもと2年ほど前からアイイス(*)で学び始めた。その間、アイイス外でも様々なカウンセリングを受けてみたが、正直言って玉石混交であり、自分の中でなかなか確信できないでいた。

そして、先日、あるアイイスのミディアムの方のカウンセリングを受けた。母親や母方の先祖たちが現れたが、そこで指摘される妻や子供たちの性格や状況、親子関係、子どもと担任の先生の関係、私の職場での環境などなど、いずれも図星と言っていいぐらいの的確さだった。何よりもうれしかったのは、多くの先祖霊や指導霊の方々が、私のことをいつも気にかけ、ときには導き、ときには必死に守ろうとされている様子がひしひしと伝わってきたことだ。シルバーバーチは「霊的真理を理解している者に取越苦労はあり得ない」と繰り返し説いていたが、そのことが実感をもってわかったような気がする。大きな収穫だった。

セッション後半は半年ほど前に自殺した友人が現れた。今なお孤独に苦しんでいる様子だった。ミディアムの方が頭が痛いとおっしゃった。彼が飛び降り自殺をしたときに頭に強い衝撃を受けたであろうことにそのとき初めて思い至った。これも驚きだった。まわりの守護霊の皆さんから、私が彼に愛の念をもって語りかけることをお願いされてしまった。それによって真実に気づけば賢明な彼の成長は速いはずだからと・・・。

その約2週間後のサンデーサービス(**)の場に、彼は再び現れた。私の語りかけのおかげで随分と目覚めてきたという。そして、彼の母親がいまなお自分を責め続けて苦しんでいる様子なので、母親のせいではないこと、今の彼の状況などを、母親宛に手紙でも書いてほしいという。そのタイミングに合わせて彼も母親の夢の中に出るようにするから・・・と。

何とも注文の多い友人の霊とその守護霊たちである(笑)。

できるだけのことをしてあげようと思う。

私もまた、新たなステージに入ろうとしているのかもしれない。

(2009年5月)

*アイイス:私が信頼を寄せるスピリチュアリスト団体のひとつ「国際スピリチュアリズム協会(IIS)」のこと。

**サンデーサービス:イギリスで発達したもので、キリスト教の日曜のミサに、スピリチュアリストが霊能力のデモンストレーションなど独自の行事を加えたもの。

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2009年8月21日 (金)

友の死~悪戦苦闘こそ人生

過去の投稿原稿第4弾です。

初めて本の紹介から離れて、自分の体験のみで書いた文章です。

友の死~悪戦苦闘こそ人生

 「お顔がよく見えませんね。うつむいていらっしゃる感じです。この方は病気で亡くなったのではないようですね」-ミディアムの方が言った。

 「最近、友人が自殺しました」-私は答えた。

 「何かおどおどして、ぼそぼそと話されています。ご自分を責めていて、ご両親や友人たちに申し訳ないとおっしゃっています。みんな自分の悲しみで精一杯の様子で、あなただけが冷静に受け止めてくれている。みんなには感謝もしているし、楽しい思い出もたくさんある。そのことを伝えてほしい。あなただけが頼りだとおっしゃっています」

 私は友人からのメッセージだと確信した。

 彼が亡くなった直後、遺体の安置されたお寺には、多くの友人たち、そして遠方からは悲しみにうちひしがれた年老いたお母さんがかけつけた。私は心の中で彼に語りかけた。「こうなってしまった以上、コミュニケーションが取れるのは僕だけだぞ。何でも僕に伝えてこい」

 彼は長い間、重いうつに苦しんできた。強い自殺願望もあった。「人生に意味はない」といつも頑なに主張した。その一方で、親より先に死んで、親を悲しませてはいけないと考える優しい奴だった。また、責任感や正義感がとても強く、有能で完璧主義の男だった。

 私は、自分がスピリチュアリズムに復帰して以来、彼にもさりげなく情報を提供してきた。科学性を重んじる彼は手強くもあったが、世間の常識から外れたことでも受け入れられる素養の持ち主でもあった。私は密かに彼がスピリチュアリズムを受け入れたら、最強の味方になると期待していた。彼の病が癒されるとともに、適切に導かれることを私は繰り返し祈った。実は遠隔ヒーリングもお願いしていた。

 しかし、彼は逝ってしまった。

 我が子の通う保育園で、子どもの命に関わる事故があった。命は助かったが、事故に関わった3人の保育士さんが深く傷つき、休職せざるを得なくなった。保育園全体が動揺していた。私は保育園に対して協力できることは協力しながら、保育士さんたちが元気になることを祈り続けた。この保育士さんたちのためにも遠隔ヒーリングを依頼していた。

 しかし、事故から1年近くが経って、2人が退職することとなり、保育園の動揺はなお続いている。

 さて、スピリチュアリズムは、あるいはヒーリングは、無力だったのだろうか。

 そうではない、と私は思う。

 世には、「スピリチュアル」とは開運や願望達成のテクニックであるかのような言説も溢れている。しかし、もし、祈りやヒーリングで友人や保育園の問題が魔法のように解決されたとしたら、そもそも「この世」や人生に存在意義などないのではないだろうか。

 私は子どもの担任の保育士さんに会うことができたら、「今の苦しみは間違いなく一生の宝になるはず」と伝えたかった。その機会は残念ながら訪れなかったが、このことは今の自分自身についても言えると思う。大切に思う人たちのために祈り、行動しているつもりなのに、思い通りにはいかず、悪戦苦闘する。そのことが糧となり、宝となり、成長につながっていく。きっと今回のことから、私も、友人も、保育士さんたちも、とても多くのことが学べるのだと思う。どんなに厳しい試練の中にも積極的意味があることを確信しながら前進していくことができる。その基盤を与えてくれるのがスピリチュアリズムだと思う。

 最強の味方と期待した友人は向こう側に行ってしまった。数年前には大学で同じ師のもとで学んだ親友も白血病で逝った。しかし、私は絶望していない。「向こう側とこちら側で協力し合って、何かすごいことをやり遂げようか」-私は今、友人たちにそんな風に語りかけている。

 それから・・・頑固だった友人には、今もなお「人生に意味はない」と考えているのかどうか、意地悪く問い詰めてやろう・・・と密かに思っている。(笑)

(2009年2月)

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