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2010年6月15日 (火)

霊やあの世の存在はそんなに大事か

 前回の記事「現代医学とスピリチュアル・ヒーリング~父の思い出とともに」にトラックバックしていただいた先のブログ(ニセ科学批判などの議論が満載です)ではとても興味深い議論が交わされました。補完代替医療に関する議論が中心でしたが、話題はスピリチュアリズムや宗教にも及びました。

 ある方は、「霊やあの世の存在」は、実は「癒し」や「悟り」にとってはあまり必要ないのではないかというコメントをされていました。日本の伝統的仏教では、だからあまり詳しく「霊やあの世の存在」が語られないのではないかと。そしてそのような仏教の伝統を再評価すべきではないかと。(私なりに解釈して書いています)

 非スピリチュアリストの立場の方にとっては、きわめて自然な見方だろうなあと思い、私はあえてムキになって反論はしませんでした。ただ、スピリチュアリストにとってはとても大事な論点だと思いますので、ここで改めて論じてみます。内容的には以前書いた記事「生きる意味~スピリチュアリズムの本質」と重なりますが、少し趣向を変えて・・・。

 いきなりですが、例えば、人生とは高校入学に始まり卒業で終わる3年間のみであると信じている人類がいたとしましょう。入学以前の記憶はなく、卒業と同時に死が訪れると信じているのです。よほど強靭な信念やたくましさを持っている人なら、それでもその3年間を前向きに有意義に生きようとするかもしれません。しかし、大多数の高校生は、なぜ毎日高校に通って勉強しなければならないのか、予習や試験勉強に追われないといけないのか、勉強にスポーツにと文武両道などを求められないといけないのか、全く納得できないのではないでしょうか。たった3年間しかない人生、刹那的に快楽的に生きるか、やけになって犯罪に走るか、世をはかなんで自ら命を断つか、というふうになるのではないでしょうか。

 しかし、実は、高校入学に至るまでには、両親の無条件の愛を受けた幼児期があったこと、友達や先生と楽しく過ごしながら成長した小学校時代があったこと、中学校時代には、自分の能力や個性、そして夢を考えながら、希望の高校を選び、その合格に向けて一生懸命勉強した結果、今の高校に入学したこと、などを思い出したとしたら、どうでしょう。そして、高校の先には、これまた今の自分の成長度合いや個性に合わせて、どんな大学や専門学校に進学するか、あるいはどんな会社に就職するかという選択肢が開けていることに気づいたとしたら・・・。(そんな順調な人生ばかりではないという現実論はとりあえず措くとして)

 そのような「新たな世界」が見えてきた後では、これまでそれだけが全てと信じていた「高校3年間」に対する見方ががらりと変わるのではないでしょうか。勉強やスポーツ、人間関係に対する意義づけや姿勢が一変してしまうように思います。

 少々強引なたとえ話ですが(笑)、スピリチュアリズムとはそういうものだと思います。これまで何度か書きましたが、スピリチュアルとは、開運や願望達成のための不思議なテクニックや来世に期待する思想などではなく、「この世」に対する新たな視点を提供してくれて、より前向きで積極的な生き方をもたらしてくれるものだと思います。

 「生きがい論」シリーズの著者である経営心理学者の飯田史彦さんは、このような変化を「スピリチュアルな観点」を獲得することによる「ブレイクスルー思考」と名付けておられます。飯田さんは、自らをスピリチュアリストとはおっしゃいませんが、その考え方はまぎれもなくスピリチュアリズムです。

 飯田さんによると、このような「スピリチュアルな観点」(詳細な説明は省略します)は、人の人生観、生きがい感に劇的な効果をもたらすと言います。いや、私自身がそうでしたから、きっとそうだと思います。

 このような変化は、立花隆さんが『宇宙からの帰還』において紹介されていた宇宙飛行士たちの価値観の変化や、臨死体験から生還した人たちの人生観の変化に相通ずるものがあるように思います。地球の外側やこの世の外側からの視点を得たことによる変化と言ってもいいかもしれません。

 さて、この「スピリチュアルな観点」の前提となるのが「霊とあの世の実在」です。これについては、近代スピリチュアリズム草創期より、科学者たちが心霊研究として取組み、一定の成果を収めてきましたが、完全なる決着はついていないようです。

 飯田さんは、実はご本人自身がスピリチュアルな能力をお持ちのようですが、経営心理学者らしく、あえて「スピリチュアルな観点」を「真理」とは主張されません。「人生観(仮説)であり、人生を前向きに生きるための発想法・思考法である」という位置づけをされています。「事実」よりむしろ「効果」に着目しようという立場とも言えます。「方便」に近いですが、これもひとつの考え方、というより戦略ですね。

 飯田さんのさらなるユニークな主張は、「スピリチュアルな仮説」の絶対的優位性です。(経営学における「絶対優位の戦略」とは、どう転んでも勝つというシナリオだそうです)

 簡単に紹介しますと
(1)「死後の生命は存在しないこと」は永遠に実証できない
(2)死後にも意識があった場合、否定論者は自分の誤りを知るが、死後に意識がない場合、肯定論者は自分の誤りを知ることはない
というものです。

 すごいですね。どうせなら、「霊とあの世の実在」を信じて前向きに生きた方が得でっせ(笑)、という考え方です。少々開き直りすぎのような気もしますが、これも面白い考え方ですね。

 やっぱり私は、伝統的習俗となった宗教的行為から得られる曖昧模糊とした「癒し」や、凡人にとっては意味不明あるいは難解な「悟り・解脱」よりは、スピリチュアリズムの考え方の方が納得感があって、好きです。それはある種の人たちから見れば幼稚な考え方なのかもしれませんが、私は、その幼稚に見えるほどシンプルなところが、スピリチュアリズムのすばらしいところだと思っています。

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コメント

初めまして、お邪魔します。poohさんのところ経由できました。

飯田史彦氏の絶対優位の戦略と似たようなことははるか昔にパスカルも言っています。孫引きですが,リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」に次のようにあります。

>フランスの偉大な数学者ブレーズ・パスカルは,神が存在するという確率がどんなに小さくとも、神の有無についてまちがった推測をしたときの報いには、かなり大きな非対称性が存在すると考えた。
>あなたは神を信じたほうがいい、なぜなら、もしあなたが正しければ永遠の幸福という利得を得るが、まちがっていたとしても、いずれにせよ失うものはないだろう。それに対して、もしあなたが神を信じないとして、それがまちがっていることが判明すれば、あなたは永遠の苦しみを得ることになるが、正しかったとしても、何の利得もない。悩む必要がないのは明らかだ。神を信じなさい。

Glass Ageさんも感じられたように、ちょっと打算的ですね。ドーキンスも同じようなことを書いています。

曰く,信じるということは自分の意思で決定できる事ではない、と。つまり,このような打算的な戦略は信じている振りをしているに過ぎないと言うことです。そして,あなたが信じる神が全知の類の存在でない方が良いだろう,なぜなら,そのような偽装を見抜いてしまうから,と書いています。

死後の世界は神とは少し違いますが,心の問題をこの種の打算的論考で判断すると云うのはやはり違和感がありますね。

とはいえ,素朴な感情として,心の平安を得るために,死後の世界を信じるというのは世界中の民族も考える普遍的なことではあると思います。

そして,心の平安を得るために信じるということも,信じる振りをすることだと気付いてしまえば,もう素朴に心の平安は得られません。私は,「そう考えた方が気休めになる」というのは自分自身にウソをつくことのようで気休めにならないのですね。

なお,飯田史彦氏の戦略は心の平安とはあまり関係が有りません。単に,死後に意識があるという仮説を支持する人は,その仮説が正しければ,死後に確認出来るが,支持しない人は間違いを確認することになる,仮説が正しくなければどちらも死後に確認出来ない,と言うだけです。間違いに気付くことが,絶えられない苦しみというわけでもないし,正しかった人が,永遠の幸福を手にすると約束されているわけでもありません。そう言う約束を得るためには,パスカルのように,具体的な死後の世界や君臨する神を考えなければなりません。そうすると別の問題が出てきます。キリスト教の神を信じるのか,イスラム教の神を信じるのか,あるいはそれ以外の神を信じるのかという悩ましい問題です。もし間違えば,永遠の苦しみを味わうことになりますからね。神のいない死後の世界にしても,幸福な世界なのか,地獄のような世界なのか分かりませんが,幸福な世界だけ思い描いて安心を得ているのではないかと思えます。

要するに,パスカルの論証の類は,自分に都合の良いことを信じていれば,気持ちよい気分でいられるというだけで,自分に都合の悪いことは無意識のうちに無視しているだけではないかと思います。病気になった人が自分の病気を認めないことで安心しようとするとか,がんの告知をしないということと似ているように思えるんです。結局,この安心は疑心暗鬼に陥れば得ることは出来ません。脳天気に信じることでしか安心は得られないのではないでしょうか。

成熟した宗教では,素朴な人ばかり相手にしているのではありませんから,死後の世界のことはあまり言わなくなったのではないかと思います。しかしまた,人間は入れ替わり,素朴な気休めを求める人が新しく生まれますので,死後の世界の需要があるのは、確かだと思います。

ながながと書いてしまいましたが、死後の世界を信じることが良いとか悪いとか言いたいのではありません。私としては、そういうことでは心の平安は得られないということです。私みたいにあれこれ考えずに、信じてしまえる人は平安を得られるとは思います。

いきなりの長文で失礼しました。

投稿: zorori | 2010年6月16日 (水) 21時59分

 zororiさん、ようこそ。
 論客ぞろいのpoohさんのブログからお越しくださったのですね。

 パスカルの論証については初めて知りました。神の存在証明として様々なむなしい議論が重ねられてきたことは読んだことがありますが・・・。

 zororiさんの飯田説への疑問にはもっともなところがある、というか鋭い指摘だと思います。そしてこれは飯田さんのひとつの戦略なのでしょうね。(飯田説を紹介したら、非スピリチュアリストの方々も議論に乗りやすいかなという魂胆も実はありました・・・)

 飯田さんは実は、かなりのレベルの霊能力を有しているらしいことは、著書から伺えます。その能力や経験に基づけば、ストレートに「事実」であると主張しても良さそうなものですが、あえて「仮説」であるとか「絶対優位の戦略」であるなどと言って、とぼけておられるフシがあります。

 飯田さんは、ある時期まで不思議な能力があるという事実も隠しておられました。それは、彼が経営学の教授として、大学に勤める立場におられたからです。スピリチュアリズムを真正面から主張したら、近代スピリチュアリズム草創期の科学者たちと同様、飯田さんは大学や学会を追われたかもしれません。

 飯田さんのそういう難しい立場には、しかし、メリットもありました。彼がスピリチュアリズムではなく「生きがい論」を提唱してきたことで、多くの医療関係者や教育関係者の共感を呼び、彼が言うところの「劇的な変化」の実践例が多数生まれたからです。ここは、他のスピリチュアリズムの展開と異なるところです。

 そして、飯田さんを少し擁護するとすれば、彼とパスカルの違いは、純論理的にあるいは抽象的に正しさを主張しているのではなく、多くの実践例をもとに、「スピリチュアルな観点」の効果を実証的に主張しているところだと思います。(しかもあくまでも「この世」における効果です。)

 飯田さんは、昨年の3月末をもって、大学教授の職を辞されました。今後、どんな主張をされるのか楽しみでもあります。

投稿: Glass Age | 2010年6月16日 (水) 23時07分

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