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2010年6月18日 (金)

飯田式「絶対優位の戦略」を改めて考える

 最近、週刊誌や論壇誌みたいなタイトルが続きますが(笑)。

 先日の記事「霊やあの世の存在はそんなに大事か」の中で、飯田史彦さんの「スピリチュアルな仮説」の絶対的優位性という議論(「絶対優位の戦略」)を紹介しました。

 再度、引用しますと
(1)「死後の生命は存在しないこと」は永遠に実証できない
(2)死後にも意識があった場合、否定論者は自分の誤りを知るが、死後に意識がない場合、肯定論者は自分の誤りを知ることはない
というものです。

 だから、「スピリチュアルな観点」に基づいて人生を前向きに生きていく方がよいというような主張です。

 これに対して、それは打算的な戦略であり、信じている振りをしているだけでは、本当の心の平安は得られないのではないかという鋭い指摘(コメント)をいただきました。

 なるほど確かに、スピリチュアリズムに共感していない人たちに、「絶対優位の戦略」などと言っても何の説得力もないように思います。仮にその論をしぶしぶ受け入れても、飯田さんがおっしゃるような生きがい感に対する劇的な効果など生じないでしょう。

 では飯田説には意味がないのでしょうか?そうではないと思います。いや、少なくとも私にとっては意味がありました。そのことを書いてみます。

 その前に、あるブログにおいて、スピリチュアリズムはカルト性のある新興宗教の一種ではないか、という意見もありました。それに対して、カルトや新興宗教の定義は?などという切り返しをしても、議論のための議論みたいになってしまってあまり意味がないでしょう。ただ、そうした意見も念頭に置きつつ書いてみたいと思います。

 スピリチュアリズムは科学であり、哲学であり、宗教であるという言い方がされるときがあります(「米国スピリチュアリスト連盟」の信条など)。ここで言う「科学」というのは、「私たちの宗教の教義は最新の理論物理学とみごとに一致している」というような強引で怪しげな話ではなく、19世紀後半から続々と発生した心霊現象、霊媒現象に対して、科学者たちが真剣に検証を重ねてきた、心霊研究や超心理学の150年にわたる蓄積のことを指しています。スピリチュアリズムはそうした科学的研究の蓄積に基づいているというわけです。

 心霊研究に取り組んだ多くの科学者たちは、当初の懐疑派も含めて、霊の実在を確信するようになりました。決定的な証明にまでは至っていないとされていますが、当時の議論を読むと、霊媒現象が真実かペテンかで争われているのではなく(ペテンは科学者たちによりさんざん暴かれました)、霊媒が通常の科学では説明できない能力を発揮している点は疑いようがないとして、その解釈として霊魂説が説得的か、テレパシー説など他の説明の方が説得的かで決着がついていないという印象でした(デボラ・ブラム『幽霊を捕まえようとした科学者たち』)。『第2の江原をさがせ!』で社会派ジャーナリストたちが日本のスピリチュアル・カウンセラーを検証した結果も、ほぼ同様の結論でした。

 また、スピリチュアリズムでは、その思想の源泉として霊界通信を重んじますが、これもある教祖にお告げが降りたというのとはかなり様相が違います。スピリチュアリストの間で高く評価されている霊界通信に、イギリスのステイトン・モーゼスを霊媒とする『霊訓』(自動書記通信)があります。ここでは牧師であるモーゼスが、ときにキリスト教の教義と鋭く対立するその内容に激しく抵抗します。そして、どこの何者かもわからない存在からそんなこと(キリスト教と矛盾すること)を言われても、簡単に信じることはできない、証拠を示せなどと迫ります。そして、長い長い論争の果てに、モーゼスはその通信を受け入れ、世間に公表します。一例ですが、こういう厳しいプロセスを経てきた哲学であり宗教なのだという自負が、近代スピリチュアリズムにはあるように思います。

 さて、私は、日本仏教やインド仏教、その他さまざまな考え方をさまよった挙句にスピリチュアリズムに復帰しました。飯田さんが言うところの「スピリチュアルな観点」というものに最も説得力を感じたからです。そして上に紹介したような心霊研究や超心理学の蓄積のことも学びました。しかし、それでも霊の実在を確信するには至りませんでした。自分自身の体験も大事だと思い、ミディアム(霊媒)によるカウンセリングも何度か受けてみました。少し驚くような体験もしました。それでも決定的な確信には至りませんでした。

 そんなときに私は、飯田さんの「絶対優位の戦略」を知ったのです。決定的な証拠を追い求めるのもいいけれど、それが得られるまでは信じないのか?それで一生を終えてもいいのか?-そんな問題提起のようにも思いました。まるでブッダによる説法「毒矢のたとえ」(阿含経)を聞かされたような気分でした。

 証拠にこだわる科学性も大事だ。そこが従来の宗教とは違うところだろう。しかしそれだけではいけない。その人間観や世界観に説得力を感じ、前向きに生きていけるという点も大事だ。それらを総合的に判断すべきではないか。そんなふうに思いました。

 「スピリチュアリズムは科学であり、哲学であり、宗教である」というのは、そういうことではないかなあと思います。

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コメント

ぼく個人は、スピリチュアリズムが科学性に依拠する必要はないんじゃないかな、みたいに思っています。スピリチュアリズムに科学的根拠を持たせることに意義がある、みたいな発想が、それこそ「科学万能主義」みたいに感じられてしまう。
ひとの裡には、必ずしも科学で断じてしまうことができない(あるいは科学で断ずることに意味がない)領域があると思います。それはとても大事な部分だと考えています(誠実に営まれていれば)。
そこを科学で断じよう、とする営為は、科学の価値もスピリチュアリズムの価値も同時に貶めようとする行為だ、みたいに思うのですが、どうでしょうか。

投稿: pooh | 2010年6月20日 (日) 00時44分

poohさんいらっしゃいませ。
都会から辺鄙な田舎町にこられたようなものですよ(笑)。

私はスピリチュアリズムにとって、科学性は重要な要素だと思っています。ただ、あくまでも一要素です。私の立場は、本文で述べた「総合的に判断すべき」という言葉で言い尽していると思っています。

>スピリチュアリズムに科学的根拠を持たせることに意義がある、みたいな発想が、それこそ「科学万能主義」みたいに感じられてしまう。

19世紀半ばから始まった心霊研究は、科学者たちが、目の前で展開している現象に対して、科学者として当然の態度として、研究対象にしたに過ぎません。多くの科学者がインチキを暴くつもりだったのが、予想外に長引く結果となり、ある人たちはミイラ取りがミイラとなってしまいました。そして歴史的に言うと、近代スピリチュアリズムはその心霊研究と密接に連携して生まれたものです。つまりスピリチュアリズムはその出自からして科学を含みこんでいたのです。

ただ、ひょっとしたら現代においては、スピリチュアリストの側も科学者の側も、多数派はpoohさんの見解に同意するかもしれませんね。私はそれを残念に思っている少数派なのかもしれません。

私が「総合的に」と書いた意味は、例えば、就職すべき会社選びの際に、経営者の経営理念や会社の雰囲気などで決める人もいれば、その会社の財務諸表を分析して将来性を見つつ、経営理念や雰囲気も考慮して判断する人もいるでしょう。その後者のような姿勢のイメージです。後者の姿勢を「会計学万能主義」とか「データ万能主義」と呼ぶ必要はないと思います。(結婚にたとえようかとも思いましたが、生々しいのでやめました(笑))

したがって「科学で断じよう」という立場とも異なります。

ここからは、少しpoohさんの論旨からは外れるかもしれませんが、私は「合理」と「非合理」を決して交わることのない別世界のものとは考えていません。例えば、宗教者などが安易に「言葉や論理では説明できない」として合理的説明を放棄してしまう姿勢に、私は批判的・懐疑的です。それが深遠なる境地などであったとしても、まずは言葉や論理で、合理的に説明するように徹底的に努力すべきだと思います。そして、それでもなお言い尽せない部分こそが本当の「非合理」の世界ではないかと思っています。

投稿: Glass Age | 2010年6月20日 (日) 22時05分

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