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2009年10月31日 (土)

阿弥陀仏

 今回は、少し趣向を変えて、阿弥陀仏について語ってみました。

 仏教や浄土真宗について書いた部分には思い違いや勘違いが含まれているかもしれませんが、ご容赦を。

阿弥陀仏

 数年前に母と父が立て続けに他界した。わが実家は、まだ昔ながらの習慣が残っていて、初七日から四十九日までは毎週、親戚中が集って、地元のお寺の住職が来てくれて、仏壇の前でお勤めをしてくれた。悲しみや苦しみを抱えていた私は、その住職の唱えるお経の響きがとても心地よく、癒される感じがした。西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派のお寺の住職だった。住職の口から度々出てくる「阿弥陀さん」って何だろうと思い(自分の家の宗派の基本中の基本であまりに恥ずかしい疑問だが)、質問してみた。丁寧に答えてはくれたが、私にとっては何か要領を得ない内容だった。

 実は、私は中高生の頃、南無阿弥陀仏と唱えれば救われると説く浄土系の教えを軽蔑していた。それは鎌倉時代の貧しい人たちにとっては救いとなる教えだったかもしれないが、現代人には到底通用するものではないと思っていた。10代後半でスピリチュアリズムを一旦受け入れてからは、自己責任を重んじるスピリチュアリズムと他力本願とは全く相容れないもののように思えた。

 両親を送った後、私は、しばらく仏教関係の本を読み漁った。親鸞や浄土経典に関するものから原始仏教に至るまで様々なものを読んだ。しかし読んでも読んでも、なかなか納得感も癒しも救いも得られないような気がした。学ぶ過程で、阿弥陀仏とは、いわゆる浄土経典に登場する西方浄土におられる仏様であることを知った。そして、日本人が大事にしてきた浄土経典を含む大乗経典(般若心経も法華経も)は、実はブッダの死後数百年後の人たちが創作したものであることも知った。ブッダ直伝に最も近いものは、実は私たちが学校で小乗仏教と習った南方系仏教が重んじるパーリ語で残された経典(漢訳では阿含経)だという。そういうことを知っていくにつれ、私はますます阿弥陀仏に対して否定的な思いをもつようになった。ちなみに住職が毎回読んでくれていたのは、「正信偈」というものでいわゆるお経ではなく、親鸞聖人が著した『教行信証』の一節ということであった。

 しかし、だからと言って、ブッダ直伝の原始仏教こそすばらしいのかというとそうとも思えなかった。原始仏典にはとても大事な言葉もたくさん載っているようには思ったけれど、これぞ真実の教えという納得感は得られなかった。そして、その後さまざまな考え方を遍歴したのち、私は、スピリチュアリズムに舞い戻った。私としては、やはり一番素直で、最も腑に落ちる考え方だと思った。

 スピリチュアリズムを改めて学び直し、さまざまな経験を積む中で、私は、常に両親を始めとする身内の霊たち、守護霊・指導霊たち、そしてより高次元の光の存在たちに、日々見守られ、助けられ、導かれていることを実感した。スピリチュアル・ヒーリングの効果も、私たちの力によるのではなく、見えない光の存在の力であることを知った。そんなことを感じる中で、私はふと、このような光の存在の働きは、浄土真宗系の人たちが語る「阿弥陀さん」の働きとそっくりではないかと思うようになった。スピリチュアリズムでは自己責任を重んじるとは言うものの、常に見えない存在の支えがあることを重視し、私たちは決して孤独ではないと考える。浄土真宗では私たちはすでに阿弥陀さんに救われているのだと説く。

 ここからは私の推測だが、ブッダの死後数百年の時代に大乗仏教を興した人たちは、瞑想などの実践の中で、光の存在を確かに感じたのではないだろうか。そしてそれを阿弥陀仏の物語として解釈した。法然上人や親鸞聖人は、浄土経典を学び、信仰するなかで確かに阿弥陀仏と呼びうるような光の存在を感じたのではないだろうか。私は今、阿弥陀仏をそういう存在として、親しみをもって(母の口癖は「阿弥陀さんがちゃんと見ていてくださる」だった)、改めて見つめなおしてみたいと思う。

 霊感の鋭い人たちは、神社やお寺に行くと、そこに固有名をもった神々や仏の存在を感じ、メッセージを受け取るという話もよく聞く。しかし、私にはそのような能力はないので少し負け惜しみが入っているかもしれないが(笑)、そういう名前はどうでもいいことではないだろうか。身内の霊は別として、高次元の存在は、「光の存在」ぐらいでとどめておくのが一番いいように思う。「光の存在」側もそれを望んでいるような気がする。

 最近、私は、わが実家の仏壇の阿弥陀さんや大阪の御堂筋にある北御堂(浄土真宗本願寺派の津村別院)の阿弥陀さんと向き合いながら、そんなことを考えている。

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コメント

宗教の捉え方は様々でいいと思います。
信じられれば自信となって現れます。
この世は物質世界、感じられれば幸せ。
心に一灯あれば明るい方に進めば良いだけです。
南無阿弥陀仏は真実と人としての誠の心。
すべてを許す、感謝、尊敬、崇拝へと昇華します。
欲もまた昇華して人のためになる大欲にする。
願いも昇華して人々のためになる大願にする。
難しいことですがそうありたいものです。

投稿: エスプリ | 2009年11月 1日 (日) 01時08分

光の存在、、なるほどですね。

私も高校のころ他力って話を聞いて違和感がありました。人任せなんて嫌だと思いました。
悪人が救われるとかは、意味不明でした。
その後、貧しい人や困難な状況にある人たちの側に立って実践するキリスト教の「解放の神学」に触れて、大きな共感を覚えました。
法然や親鸞も、底辺にある人たちの立場に立ったんだと思ってます。仏教を地位ある人たちや金持ちのものから、みんなのものにしたのだと。
女性や貧乏人は人間じゃない=悪人だったんでしょうね。いまだったら派遣やワーキングプアかな。ホームレスは自己責任だと思ってる人多いですものね。
すいません、勝手なこと書きした。

投稿: SAKI | 2009年11月 3日 (火) 10時45分

エスプリさん、SAKIさん、私の拙い文章に早速のコメントありがとうございます!お二人とも個性は全く違うようですが、味わいのあるコメントですね。

仏教について少し捕捉させてください。私は、仏教の考え方の、どうしてもひとひねり、ふたひねり説明を要してしまうような複雑さに疑問を感じてしまいました。ブッダが説いた教えはシンプルだったのかもしれませんが、今となってはブッダの悟りとは何であったのかも諸説あって定まっていません。その後の仏教の展開たるや理論構築に理論構築を重ねて、まるで迷路のようになってしまっていないでしょうか。少なくとも私は迷路にはまりこんでしまった感じがしました。

もちろん歴史上の仏教者たちがそれぞれの時代状況の中で真摯に真の教えを追求し、さまざまな社会的活動を実践してきたことには敬意を払いたいと思います。また、現代においても一生懸命がんばっておられる仏教者がおられるのも確かです。

上田紀行さんという文化人類学者が『がんばれ仏教!』という本で、現代の日本で奮闘する仏教者を紹介しエールを送っておられました。また、ベトナム出身のティク・ナット・ハンという禅僧も私の尊敬する仏教者のひとりです。

日本人には最もなじみのある宗教、仏教。だからこそ仏教や仏像が、悩み多き現代日本において、静かなブームになるのだと思います。仏教者にはその期待に応えてほしいと思います。「がんばれ仏教!」と私も言いたいです。

投稿: Glass Age | 2009年11月 3日 (火) 22時15分

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